三島の文体やリズム感、価値観、美醜についての感性を知りたくて、
できるだけ三島の作品に接しようとしていた。
その一環。
高校の頃に『仮面の告白』『禁色』を読んではみたものの、
その精巧さ、危険さ、単純に言って面白さは、幼い私には理解しがたいものだった。
同時期に読んでいたフロイトも、一つところでぐるぐると理解に苦しみ、
結局何もわからず仕舞だった。
今は、面白いと思え、だいぶ分かるようになった気がする。
ただ、単に一読者として面白がるに留まるのみだが。
これは姦通の話である。
悩むことを知らずにすむような環境に育ち、生き、これからもそのさ中に生活を築いていくであろう節子は、
幼い頃に口付けを交わした土屋と再会し、肉体関係を結び、恋とするものを思考するに至る。
節子は肉を知り、精神を思い、やがて自らの行く先を自ら選び取るに至る。
姦通を通じて自立を見出すのである。
ここに三島が当時見ていた女性のあり方が息づく。
女性の社会参加など、まだ芽もない時代であった。
女性は結婚し、家庭に収まるのが当然とされ、
働くなどということはまずもって貧しさの証に過ぎない。
キャリアウーマンなどという言葉は、どう考えてもここ数十年の話。
女性は、男を知らず処女のまま結婚し、家庭に入り、生涯亭主しか男を知らぬもの、
それが理想とされていた時代。
冗談じゃない。
三島の『反貞女大学』というエッセイを読んだが、
そこにも「姦通のすすめ」が書かれていた。
姦通を通してこそ、女性の精神の自立がはかれるとか何とか。
女がまだ「解放」されていなかった時代。
その痕跡が大きく刻まれている。
姦通初夜、うまくことをなさなかった土屋に、節子は倫理観の現れを見、愛しく思う。
その瞬間の節子を、三島は聖女に例える。
逆説的な比喩。
三島は、女性に思考の必要を説き、家庭に繋がれたその魂を解放しようとしたような気がしてならない。
賛同の意。
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