2008年10月21日火曜日

小さな塾で、糊口をしのぐために、昔とった杵柄で英語講師をしている。
その帰り道。


英語は毎日やればいい。
毎日、何かしか英語的な表現や課題に触れ、頭を使うようにするだけで、
思考が習慣づき、勘が養われ、
結果として成績が伸びる。


私が受け持っている子の目標を、「英語を得意科目にする」と設定した。
試験前なせいか、集中力が日増しに上がるのがわかる。


昔はよく勉強した。
毎日何かしかの問題をとき、
時間を忘れることもしばしあった。
結果成績が伸び、
高3で英検準一級をとり、
学年でもトップを争っていた。


しかし。
だからなんぼのもんじゃい。
と思わないでもなかった。


塾に行けば、私より頭のよい、理解が速く深い人間が山ほどいた。
そもそも点数でクラス分けされることの理不尽さを拭いきれないでいた。


だって言葉でしょ?
誰かに考えを伝えたり、理解しあったりするためのものでしょ?
それをテストして点数化して、顔も分からない誰かと競うように番付して、
言葉本来の目的と大きく逸脱してるんじゃない?
しかも戦勝国の言葉。
地球上全ての地域で使われているわけでもないのに。
何でこんなふうに一つの言語を扱うの?


とても不思議だった。


ただ問題や課題を解き、上達していくことが楽しくて、ひたすら勉強した。


でも、本当に意味のあることなのかどうかは、分からないままだった。
不問にした。


教えている子を目の当たりにするとき、ふと当時の思いが蘇り、
教えることに何の意味があるのか、大きな疑問が湧く。
いまだに答えは出ていない。


話し言葉を扱う演劇にいまだ興味が尽きないのも、このときの疑問に自分で答えを見出したいためでもある。


言葉の、本来の機能が失われ、ゲームのルールに堕した瞬間、
言葉に何が現れるか。


生きることは、決してゲームではない。

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