2015年12月5日土曜日

適当な料理

最近、「適当な料理」にはまっている。
だいたいこんな感じ、ああそうそうこんくらい、みたいな。
あとショートカットのために、レトルトとかばんばん使う。
最近の朝は、大目に炊いて冷凍してある炊き込みご飯(出汁はレトルト)で、割と贅沢目なお茶漬けをつくることに命がけ。


今朝は、鰹節をぶっこんだ湯に、細かく刻んだ大根の葉とカブをぶっこんで、
その隙に生姜をすりおろしてネギを刻んで、
ついでに大根も少しおろして、
レンチンした炊き込みご飯にとろろ昆布とユカリ(大子町で入手)と永谷園の「お茶漬けのもと」をぶっかける。
野菜が柔らかくなったであろう頃に火をとめ、鰹節ごと飯にぶっかけ、その上から薬味をまき散らす。
もはやぶっかけすぎて何が何だかわからなくなってるけど、これが旨い。


一昨日、すりおろしテクをどうにも満喫したくてしたくてたまらなくなり、
すりおろしデコボコが持ち手についたピーラー(皮むきするやつ)を購入。
ちょっと小さいけど、しばらくこれでやってみる。
昨日は納豆とろろ蕎麦をどうしてもやってみたくて「やまと芋」をおろしてみたけど、
ぬるぬるだらけで制御不可能になり本当に大変だった。


おろしたての生姜でいただく食事は本当に美味しい。
今までのチューブ生活は何だったんだ。
いまわさびを探しているのだけど、近所の大手スーパーには見当たらず。
商店街の八百屋に行ってみよう。


自分の指先から、扱った食材の匂いがする。
いまは生姜の匂い。
前は煙草ばかり撒いたり吸ったりしていたので、煙草の匂いが絶えなかった。
そういえば、魚を扱う居酒屋の料理長兼マスターが、指から魚の匂いが消えないから、
自分の子どもに嫌がられるという話をしていた。


何となく、指先にしみこむそんな生活感て、よいものだなあ。

2015年11月4日水曜日

そういえば「派遣」


先日フライングステージの舞台を拝見して、そこに登場する人物何名かが「派遣社員」として働いている設定になっていた。
LGBTの社会での在り方が大きなテーマの1つである団体なので、ゲイやレズビアンが登場する。
そのゲイの中に、派遣もいて、正社員もいた。
この「派遣」というのが気になった。


私も自分の台本を書こうとする際には、「女1」「男3」という役名であろうが、
またやりとり内には出て来ないにしても、
一応どのようにこの世でシノギを立てているか、各人物についてそれなりに考える。
そのときに、
・社会において成人として責任を背負いきりたくない
・でも働かなくてはならないが肉体労働は嫌
・どこかでホワイトカラーに近い位置でありたい
といった意識を持たせたいときに「派遣」という設定にすることが多い。

そして一番の重きは「社会において成人として責任を背負いきりたくない」にある。
ある一定の組織に属して正式な部分となるのではなく、
いつでも切り捨てられる部分(雇用・被雇用の双方にとって)であろうとする。
それが「派遣」という選択をする積極的な理由の一つだと、私は捉えている。


そしてこの流動的な関係をあえて選ぶってどういうことなんだろうと、
舞台を観て改めて引っかかった。
だって、出世も頭打ちになるし、作業の幅に限界があってある意味ルーティンで面白いとは言い切れないし、
労働条件についても正社員ほど手厚くはないし。
働き手としては望ましくないことの方が多いのではないかと思う。
でも「派遣」を選ぶ。

そして私もこれまでシノギで必要なときは、「派遣」を選ぶことが多かった。
正規雇用からはとにかく走って逃げていた。
でも、この暫定的な関係って、団塊→バブルを経た後の、僕たちがちょうどいいと思える社会との関係の作り方の、一つの肯定的なモデルなのではないか。
つまり、会社や組織に属することがアイデンティティの一部を形づくるってことは、
もはや必然では無いんじゃないのってこと。
そこに団塊~バブル世代との間との、認識の溝があるんじゃないかなって。
そんなふうに思った。


どこかに属した方がいいんじゃない。
いったい何がしたいんだ君は。
さんざん問いかけられ、時には責められ、
自分でも何だろうなと思ってきた。
どこにも属せないし、自分の社会的役割はこれですと一語に決められない。
だってそうすることで、誰の特にもならないし。意味があることと、到底思えなかったから。
だからそうしなかったし、できなかった。
答えられないなー、ごめんなさいなー、とそれなりに悶々としてきた。


けどこの、暫定的な、目的に沿って集合離散を繰り返す形の方が、何となく今は風通しが良いし、一つのワークスタイルなのかも知れないと考えている。
一方で、これまで、労使間にとんでもない闘いがたくさんあって、労働側がいろんな権利を手に入れて来たのは、ほんの少しだけど、知ってはいる。
フランス革命とかロシア革命とか、日本のこれまでの歴史のことも考えると、ここに至るまでどれだけたくさんの血が流れてきたことか、とも思う。
だからたぶん、結婚もせず「派遣」なんて暮らし方ができるのは、贅沢な話なんだろうとは思う。


でも、だって望まないんだから。望めないんだから。
自分を大きく抑殺してまで生きていく人生を選ぶことはできない。
それこそ、これまで流されてきた血を否定する行為なんじゃないだろうか。

あ、ちなみに、正社員として働くこととか、結婚とかを否定しているわけでは、
全く無いです。
じゃなくて、そう出来なかったってだけで。
落伍者と呼べるのはこちらです。
で、本当にこれは落伍してるってことなのかな、って話です。はい。


舞台では、終演後の対談で「孤独死くらいさせろ」というエピソードが出た。
福祉の方向性を問う、重要な考え方だと思う。
生きるって何だろう。
ねー。


絵は今日ハマったばかりのクロヴィス・トルイュ
尼さんが絡んでます。

2015年11月3日火曜日

だらだらごろごろ

ものすごく久しぶりに、さほど強いプレッシャーもないところでぼんやりと暮らしている。
いや正確に言うと、プレッシャーになりそうなものを全部いったんわきにどかして、
のんびり暮らすことを優先順位の上位に置いて生活してみている。
いわゆる「一息ついてる」って状態です。


現場貧乏性なので、何の予定もないと不安で不安で仕方なくて、
その不安を埋めるためについ誰かを誘って飲みにいってしまっていたのがこれまでの暮らしだったのだけど、
今は何となく、「立ち止まったら?」の内的ヴォイスに耳を傾け、したがってみる。
というより、体力ががっそり落ちてきているだけなんだろうけれども。
確かに、一息つける環境にあることなど(経済的な意味も含めて)本当に稀なのだから、
せめて今月だけでも、少し考え考え、ちびちび貯金を切り崩しながら暮らして行ってもよいのでは、と思った。
いや今月は無理だな。今週か。いや今日か。
と、やっぱり不安に負ける。働かざるもの食うべからず。


何かしか、だらだらブログ書くかもですが、
ちょっと中にもぐります。


そうそう、きょう山口昌男のエッセイ『知の祝祭』をだらだらごろごろ読んでたら、
クロヴィス・トルイュって絵描きが紹介されてて、
これをネットで調べてみたら、エロアナーキーで良い感じで、
思わず待ち受けにしちゃいました。
こういうのが手軽に調べられるようになったのは、本当にありがたいです。


2015年5月17日日曜日

酔いどれ雑想0516

なんで村野さん演劇やってるんですかって聞かれた。
理由はたくさんある。
でもその中のひとつに、関わってる人たちが、あまりに不器用で、あまりに素敵だからだ。


決して処世術に長けてない。
ながらも、自分を、自分の芸事を、高めざるを得ない。
その不器用さ、アンバランスさが、たまらなく愛さざるを得ない。


みんな売れたらいいと思う。
でもその不器用さ、無骨さは、失われてほしくないと思う。
ないものねだりだとは思うけど。


てかそれより自分のことだよね。
無職で、久々に飲みすぎで便座抱えてる。
ま、そんなもんだ。


明日は明日の風が吹く。
仮に全体主義の風が吹き出したとしても、
私は無力な粒子でいようと思う。

2015年4月20日月曜日

絶食のこと

先日、手術のために、約1日、絶食した。
そのぶん点滴をうたれたので特段空腹を覚えることはなかったけど、
むしろそのこと自体がとても物足りなく思えた。
何食べよっかなー。
何飲もっかなー。
そういったことが、とても大切な要素だということを知った。
少なくとも、私にとってだけど。


「食」ってこーゆーことなんかな、と思った。
何でもエンタメ化してしまう人類。
目覚ましだって、いまやとても綺麗なフレーズが流れる。
電話の着信だって、昔は黒電話のジリリリリンだったのに、今やスマホの流麗な電子音だし。
ジョギングだってシャレオツに。
職場へのチャリ通だってアスリートに。


そんな感じで、食も、
ただ食べるんじゃなくて、
おいしくいただくことをどんどん楽しんでいった集大成が、
いろんな料理だったりの食文化なわけで。
で、私が日常的に欲しているのは、
栄養もそりゃ当然だけど、
まさにそこなわけで。


っていうことを、
大部屋のおばあさんたちのトークをBGMに天井を見ながら、
しみじみ実感しておりました。


あー。
昼間寝ちゃったから寝られない。
これだから自宅療養は。


そんなわけで。
きょうは、父が差し入れてくれた鶏照り焼きを加工して、
鶏丼に化かしてみました。
高田馬場「とりやす」を思い出しながら。

2015年4月18日土曜日

四足歩行再び

二泊三日と予告された通り、退院する。
まだ歩けないけど、
切開したあとと、
あとたぶんボルトを抜いたばかりで穴が開いてる骨が痛いけど、
退院する。
出る。


こりゃ自立した二足歩行は無理だと、朝の数分で悟り、松葉杖を所望。
少しの間、四足歩行で暮らします。

2015年4月17日金曜日

びょーいんなう。

入院してます。
2012年4月末に、酔っぱらった末に骨折した左足首。
骨をくっつけるために(くっつくんですねー)添え木のようにプレートを入れられ、ボルトでとめられしていたのですが、
それらを、3年越しに、とうとう取ります。
しゅぴーん。


3年間放置してたのは、多忙と金欠ゆえ。
後者は大差ないけど、前者は一時的に解除されたので、このすきに、と。


きょう手術のため、昨晩から絶食。
水もだめ。
何もしないということであれば、意外にいけそうな気配。
鶏皮ポン酢、とか思い出さなければ。


午後4時くらいから手術。
全身麻酔かかります。すこーん。


写真は昼飯と晩飯。

2015年4月8日水曜日

N.S.F.『マクベス』@桃唄309春カフェ。

お知らせです。
NSF、五回目のトライ。

N.S.F. 『マクベス』
原作/シェイクスピア
企画・演出/伊藤馨
構成・台本/村野玲子(NICK-PRODUCE)
出演/中嶌聡 近藤ミキヲ 齋藤真 綾田將一 小林あや
あの有名なスコットランドの男の話です。でも本人は出てきません、相変わらず。

春カフェサイト
N.S.F.はBチームです。
どの作品も楽しいですよー☆

* * *

座長の関根姐さんは、残念ながら今回は参加できませんが、
みんな元気に稽古してるみたい。
…「みたい」、ってのは、私は1回目の本読みしか行ってないから。
でもラインやらブログやらで、稽古(とそのアフター)の様子がダダ漏れしてくるので、
それによると。

毎回、バカバカしく書かせて頂いて、
長谷さんの劇中歌も素敵にバカバカしくて、
それをさらに演出始め座組の皆さんにバカバカしいほどに乗りこなして頂いて、
本当にありがたく思っております。
シェイクスピアさんありがとう。

今回もどんなんなるか、私自身も楽しみです。
そしてよろしければ是非、東中野RAFTに遊びにいらしてくださいー。

チケットご予約はこちら。
http://www.momouta.org/main/tickets/box/selc/338
あるいは村野まで。



写真は上野公園の桜。先週、駆け込みちい散歩。





宜しくお願い致しまーす☆

つかれた。

一つ、仕事を失った。
2010年の秋からお手伝いさせて頂いていた団体。
見事なまでのクビである。


今思えば生意気ばかり言っていたので、そりゃクビにもしたくなるだろう、と思う。
ただ一応、混乱→受け入れ→凹み→やや立ち直り→思い出し怒り(←イマココ)みたいなプロセスはたどっている。
なんだったんだろーなー、とか。


しかしこれまでも、似たようなケースはあった。
たぶん、いい加減学習した方がいい。
繰り返している何かがある。
いい加減諦めて、何かを受け入れ、何かを捨て去り、
そして何かを選択する時期にきている。
その何かが、いったい何なのかは、もう少しクリアになるまで時間がかかりそう。
って、明日くらいに「ユリイカー」ってなってるかも知れないけど。


たぶん、自分の本当に向かいたいものではないものの、
そこに居る人たちが何となく面白くて、興味深くて、
ずるずるぐだぐだいるうちに、
すっかりぬるま湯になっちゃって、
で、そのぬるま湯に勝手に苛立ち始めて(「ぬるいんだよ!」みたいな)、
方々に八つ当たりを始めて、
挙句の果てにノイローゼみたいになって、
こいつダメだ、ってなって、クビ。


これ、前にもあったなー。
確実に。
おんなじ轍だ。


どこに行っても、楽しい人は居るわけで、
そんな人たちと居ることでアウェイなはずがいつの間にかきちんと居所になっていく。
だけどそこは本当は私の望む場所ではなくて。
でもそこから、自分の意思では旅立てなくて。
切ってもらうしかなくて。
結局、誰かに甘えたかたちでぽーんと放り出していただく。
変な甘え方だし、めんどい奴だ。
けど、そういうことなんだろうな。


結局またゼロに戻ったな、って気がしています。
そりゃ寂しいし、ちゃんとご挨拶もできずにいなくなっちゃったのはどうなのって思うけど、
ゼロなりのフラット感があって、それなりに凪いでます。


どーしたもんかなー、って思いながら、
久々に本を読んだりしてます。
きょうはオールビーの「ヴァージニアウルフなんか怖くない」やっと読み切れました。
アメリカ戯曲、面白いんだよなあ。
というわけで、次は「るつぼ」。
何度手をつけても、いつの間にか現場が始まったりでタイムアップなので、
読みかけが山のようにあります。
そーゆーの処理したり。


あとは、掃除したり、洗濯したり。
ここ三年くらい、現場終わってそのままグッズを放置、ってのを続けてたから、
三年前の台本が転がってたりする。
そーゆーの片付けたりして。


あとたまにブログ書いたりして。
今月は、のんびり過ごしてみようかなって思います。
せめて今月は。


写真は、先々週の現場で舞監の牧ちゃんといただいたプチ鯛焼き。


2015年3月22日日曜日

夢を見た

恋人ができる、というか、思いが通じる夢を見た。
金髪で丸顔の、ほっぺが赤い、半ダメだけど骨がありそうな奴だった。
と、ふと思ったのは、それは男として生きた場合の自分の姿ではなかろうか、ということ。


「半身を探して」といったような恋の歌はよく聞く。
そのたびに、恋愛など自己撞着の同一線上にある他者に対する誤解が同時に起きるようなものだ、と考えるようになった。
その動機となるのは、異性(あるいは同性)への興味だったり、性欲だったりする。


それも一つの考え方ではあるだろう。
でもたぶんそれは、幼い。
そして夢が、幼い自分を思い出させた。


恋愛でなくても、思いが通じあうことはあるし、それはとても貴重で奇跡的な瞬間だ。
それは自分と相手を宇宙的な立ち位置で認識することなんじゃなかろうか。


と、ここで、いまテキストとして扱っている戯曲「動物園物語」の影響だわ、と気づいた。
良質な戯曲と向き合うことは、人間ということ、生きるという事について、様々なことに気づく契機になるのだな。


何と豊かな。

2015年3月15日日曜日

大混乱なう

日々、目まぐるしすぎる。
心を亡くすと書いて忙しいとは、本当によく言ったものだと、
月並みな感想を、深い実感を伴って抱いたりする。
オフの時間を確保するのに、戯れにゲームをしてみたら、
それがFBのタイムラインに載っちゃって、
「てめえゲームしてる暇あるんか」と突っ込まれたり。
そうだよね、余裕をなくすような状態をつくってしまっている私の咎で。
ああ、よろしくないねえ、よろしくない。


おまけにダブルブッキング2発。
自分で組んだ稽古予定を、自分の手帳に書き写し漏れ。
完全に自分のミス。
謝るしかない状況で、とにかく謝るしかないのだけど、
これっていったいなんなんだと。
いい加減、自分のキャパオーバーぶりに驚く。
こんなこと、今まで一度もなかった。


そしてあちこちで暴発。
喧嘩を売る、買う、売られてないのに買う。
私の意に反して、自我が暴動を起こしているとしか思えない。


何なんだろう、このアンコントロール。
言われるままに、思いつくままに、いろいろ抱えていったら、こんなことに。
いや抱えたのは、そもそも何故だ?
抱えたかった自意識は、何を求めて抱えていった?
このままでは自分のみならず、周りも傷つけ続ける。
なんたって、自己内テロが起きている状況なのだ。


私一人で出来ることなど、たかが知れてる。
オーバーヒートした自意識をどこかでオフって、
周囲を見渡す余裕を持ち直さなくては、
これは完全に破たんする。


落ち着け。
落ち着け、私。
王様の耳はロバの耳。

2015年1月21日水曜日

NICK-PRODUCE#21「コーヒー・ダイアリー」

 


あけましておめでとうございます。

ご無沙汰しておりました。
どうにか生きておりました。

久々に、NICKで公演します。いやー久々です。
たった1日2ステのみの、ピアノと中編芝居の小企画です。
曲目は、ラフマニノフやドビュッシー「ミンストレル」など。
ご都合あいましたら是非、ご来場いただけますと幸いです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

***

NICK-PRODUCE#21―music×drama
「コーヒー・ダイアリー(仮)」
作・演出/村野玲子
ピアノ/中谷路子

1月31日(土)@南麻布セントレホール
東京都港区南麻布4-12-25 南麻布セントレ3F
東京メトロ日比谷線「広尾駅」1番出口より徒歩6分

開演15:00・19:00(20分前開場)
前売2800円 当日3200円

出演/加古みなみ・宇原智茂・江田恵(ソラカメ)
照明・空間デザイン/松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
ドラマターグ/伊藤馨
お問合せ/nickproduce@gmail.com  090-1254-7765(NICK)
Web予約/http://nick-produce.net/