2021年3月21日日曜日

「ふるさと」に足を向ける。

昨日、ゆえあって「公団」について調べていた。高度経済成長期に大量の労働力が都市部へ流れ込み、住宅を供給する必要が出来てつくられた。
都内や郊外の公団を調べていたら、品川区にある「八潮パークタウン」にいきあたった。完全な埋め立て地で、69号棟まであるマンモス団地だ。
地図を調べてみると、特養があったり、介護施設があったり。学校が一つ、どんとあったり。児童館や図書館もある。
これは暮らしやすそうだと思い、行ってみることにした。

…何のことはない。実家である。

少子化が進み、かつて通っていた小学校は廃校となって地域コミュニティ向けに開放されていた。
隣にあった中学校は特養になっていた。
思うことは山ほどあったが、ほぼ20年ぶりに歩いたので、正直まだ整理がつかない。
結論を言うと、過去と今がつなぎ直された気がした。

***

調べものとして 「八潮パークタウン」 の情報に接している間に、介護の求人情報などもあり、
なぜ今自分がこの人生に固執して、しがみついて、必死に生きようとしているのか、一瞬わからなくなった。
全て投げ出して、実家近くの介護の求人に応募し、実家には帰らずとも、老いていく父の面倒を見ながら今の家と八潮を往復する暮らしをすればよいではないか。
ふとそんなことを考えた。
私は今の選択を終えるという選択も、今は可能なのだ。

そんなことを思いながら八潮に向かった。
モノレールの始点、浜松町駅に行くまではさほど問題はなかったが、
浜松町から大井競馬場前まで向かう道中、頭がどんどん混乱していった。
運河があり、物流の拠点となる倉庫が立ち並び、海洋大学があり、白波を立てて進む船があり…つまり、人の生活とは真逆の光景が、しかも見ないうちにさらに開発されたらしく、どんどん殺伐とした印象が強くなっていくのだ。
「空港に行く」ならまだわかる。だが「実家に行く」という言葉のイメージとは解離している。
ただいまーといって宇宙ステーションに帰って行く幾世代後の子供たちのことが自ずと想像された。
人の住む匂いが全く感じられない建物群を、緩いジェットコースターのごとく斜めにかしぎながら進むモノレール。スピードも、昔より早くなった気がする。
このモノレールに乗って、小学校時代はお受験塾に通ったはず。こんな漫画のような近未来的な乗り物に、よく怖がりもせず乗っていたものだ。
若干の恐怖心を覚えながらも窓の外を見続けていると、画一化された印象のマンション群が見えてきた。「八潮パークタウン」だ。
降りた駅は大井競馬場前駅。バスを除けば、ここが最寄りの駅だった。

駅からの道。何百回と、何千回と見た風景。飽き飽きして、うんざりして、ここが世界の全てだと思うことに苛立ちを覚えていた。
ここではないどこか、遠く離れたどこかに行きたかった。走り出したい衝動に駆られ、何度も家を飛び出しながらも、結局どこに行くこともできず、生活のために戻る場所。
果ては、遠くにありて思うもの。
つまり、ここは、私にとって間違いなく「ふるさと」だった。

かつての全世界を、しばらく歩き回る。
小さな抜け道も全て体に叩き込まれている。場所で記憶が立ち昇る。もちろん変わっている場所もある。だが元の景色が脳内のどこかに淡くとも確実に残っている。
間違いなく、私は日々ここにいた。

1985年、私が引っ越して来た当時はまだ子供が多く、小学校も3つあった。
統廃合を経て、今は小中学校合わさったのが1つ。
走り回っている子供や歩いている大人はだいぶ減ったし、唯一あるスーパーの駐輪場も驚くほど自転車が少なかった。
かつての唯一の銀行が介護スタッフ派遣オフィスに、レストランが障碍者用居住施設に変わっていた。
タガログ語で会話する家族とすれ違った。
英才教育目的か、幼い息子と英語で話そうとする、身なりの整った母親がいた。
図書館には勉強する学生よりも、絵本を選ぶ母子よりも、高齢の方が多かった。
これらは八潮だけでなく、多くの地域で見られる現象だろう。

今は住民やNPOに開放されている、自分の通っていた元・八潮南小学校にも行った。建物はそのまま。
転んで指の骨にヒビ入れた中庭(通称ピロティ)とか、卒業前に班ごとに作ったサンドイッチが失敗作で教頭先生に言い訳した多目的室とか、
図工の先生に「保健の〇〇先生と恋人なの?」と質問したらなんか怒られた図工室とか、着替えめんどくさかったけどわくわくしたプールとか、
場所により、断片的に色んなことを思い出した。
あと、よく夢に出て来る場所としての学校があって、それがずっとどこだかわからなかったのだが、この小学校がベースになってることがわかった。
思春期を過ごした中高のインパクトに押しやられてすっかり忘れていたが、むしろこっちが原風景だったのだ。

ひたすら歩く。
公文があった地域施設、習字の教室から帰る近道。
各号棟の数字から、当時そこに住んでいた友達が浮かぶ。バイバーイ。 ××ちゃんと〇号棟のエレベーターホール集合ね。 あとで△△んち行こうぜ。〇号棟の501な。
たぶん、どこの町の、どの地域でも、子供たちの間では同じような会話が行われてきただろう。
地域が特殊性を若干加えるだけで、目的と行為は変わらない。

***

所用あり父に連絡し、荷物のために帰路は車で送ってもらったが、これまた湾岸道路。
新しくつくられた道を間違え少し走り回ることになったが、それも全てベイエリア。人気は一切なく、物流の拠点のような場所。走るのは高級車ではなくトラックやダンプ。
飲食店もコンビニもない。
かつてこうして父や母の運転で、殺伐とした地域をさんざん車で移動したことを思い出すうちに、私が工場や倉庫、工場跡の施設がどうにも気になる理由がわかった気がした。

「ふるさと」と言えば田畑だったり山や川だったりするイメージがあるが、
私にとってはそれが、排気ガス臭い倉庫群であり、海運のための船であり、鉛臭い潮風であり、無人の歩道だったりするのだ。それこそが私の原風景なのだ。
むしろ山川や田畑は、私にとって懐かしいものでも何でもなく、非日常のアミューズメントだ。かつて遠足や合宿で行ったり、今は人と遊びに行く場所にある風景であり、それなりに整備された娯楽エリアなのである。
伝統や祭りに憧れがあるのは、それらが無い地域に育ったからかも知れない。ないものねだりだ。
品川というのは、宿場町として発展し、鈴ヶ森刑場があったり、様々な歴史ある場所なんだよ、というのは確かに小学校で習った。
だが自分が暮らすのは海の上の埋立地であり、どこに行っても「海抜〇m」という掲示がある場所であり、地域史はよその国の話に思えていた。リアリティがまるでなかった。
自分たちの暮らす地域について考えよう、という授業はなかった気がする。明治以降の産業の発展や公害、物流と組み合わせれば、この地に暮らすがゆえの独自の視点を養えたかも知れない。埋め立て技術の発展史とか。
品川区には「源氏前」「立会川」「青物横丁」など、人の営みイメージが立ち上がる地域名がたくさんある。
だが八潮パークタウン内にはない。区画全てが記号。せめて「八潮」だけでも、と思っていたら埼玉県にもあると知ってしょんぼりした。
宇宙ステーションに暮らしていた印象がますます強まった。

2003年に母が亡くなってからは、実家に足を踏み入れたことはない。
もちろん、八潮パークタウンは暮らしやすいところだろうし、緑も公園もたくさんあり、バスも巡回しているので交通の便に問題はない。
バリアフリーについても十分配慮してあり、車椅子でどこでも行けるようになっている。
だがその人工的な親切が、おかしなものに思えてならなかった。

団地暮らしに根本的な違和感を覚えていたのもあり、高校を出たら寄り付かなくなった。
人のぬくもりが欲しかった。
反動で、ぬくもりどころか暑苦しい演劇にのめり込み、今に至る。
だがその人間そのものの営みの中でも、いやそれゆえか、特にオリジナル作品を作ろうとするときに、どこか記号や無機質な空間を思い描いてしまう。
例えば、自分で戯曲を書くときは、どうしても名前がつけられない。「女1」「男1」、仮に名前があって劇中で呼び合うとしても、役の表記に名前を明記することに違和感を覚える。
思い込みなのだろうが、名前がそれだけで何かを表してしまうような気がしてならないのだ。
その理由はなんだろうと不思議に思ってきたが、おそらく育ってきた環境で培った感受性にあったのだろう。

***

工場や倉庫、運河を渡る貨物船、区画化された地域を思うとき、私は認識のどこかで「ふるさと」を、「ふるさと」に対する違和感を感じている。
昨日初めてそのことを自覚したとき、過去と今がつながった気がした。

2021年3月19日金曜日

おじさんと目が合う。

過日、現場でのこと。
稽古場で録音をするために、静寂をつくる必要があった。
細い通りに面したスタジオで、外であまりに騒がれると、室内のマイクが拾ってしまう。

リハーサルを終えていざ録音というタイミングで、ガランガランと派手な音が聞こえてきた。
何事かと驚き飛び出すと、おじさんが自動販売機の横にあるゴミ箱を漁っている音だった。
「すみません…すみません、今ここで録音してるんで、大きな音は控えていただけますか」
お願いをした。
「…」
手を止めたおじさんは、漁る手を止め、どこかで手に入れたらしきコーラをぐびぐびと飲んだ。
そばにあるリヤカーには缶やペットボトルが整理され積まれている。おじさんは仕事をしているのだ。
「今、録音をしているので…」
コーラを飲むのをやめたおじさんは不思議そうな顔で私を見て、「あ?」と言った。
「ですから、今、この中で録音を…大きな音をたてないように…お願いします」
おじさんは再びコーラを飲み、不思議そうな顔でじっとこちらを見る。話しかけられたことそのものに驚いているようだった。
と同時に、お願いされているという事実を理解できず、俺はあんたの頼みを聞く必要などそもそもないのになぜあんたは俺に頼むのかという、自由の極致にある表情をしていた。ある意味で、社会性から完全に開放されている。

ああそうか。
見ず知らずの人でもきちんとお願いをすれば聞いてもらえるというのは、全くの私の幻想だった。
甘えであった。

おじさんはしばらく私の顔をじっと見続けた後、何かもにょもにょ口の中で言って、つとその場を立ち去って行った。
あるいは、ひょっとすると言葉か、聴覚が不自由な人だったのかも知れない。

コミュニケーションが成立する状況に慣れ過ぎた。
懸命に生きてるつもりでいて、いつの間にか惰性的な回路が作られていた。
新鮮さを取り戻していければと思うが、できるだろうか。


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