2019年9月26日木曜日

地域イベントに関わる。


構成・演出で関わらせていただいた高山での公演が終わった。次は南砺である。富山県。写真は井波彫刻。超絶技巧ハンパない。
地域文化に触れるのは楽しい。ずっと触り続け撫で回し続けていたいのだが、
どこかのタイミングで肚を固めてえいやっとまとめなくてはならない。
そのきっかけが難しい。

台本に落とし込む際に意識しているのは、嘘をつかないこと。知ったかぶりをしないこと。
私自身が当事者でないことを強く自覚しながら、地域が発信主体であるという当事者性を打ち出していくこと。
なんというか、バランス。あくまで私は外様の、よそ者にすぎない。どんなに一人称で語るテキストを書いたとしても、それは私個人のモチベーションとはかけ離れたもの。
つまり虚構。でもそこに語りたい欲望は必須、なのでそれを感じ取る。いやむしろ逆で、感じ取ったものを要素として構成に入れ込む。
何とも言えぬバランス感覚が必要な、不思議な仕事をしている。
よそ者が地域の代弁をするような。社会化・言語化されていない、でも確実にそこに渦巻いている、発信を志向する情念を表出する手伝いをするというか。
とにかくヘンな立ち位置。
ヘンな仕事、不思議な立ち位置の現場はたくさんあったけど、このバランスを要求されることは初めて。

地域を語るときに美辞麗句は語らないし、語る必要もない。人間が生きる場、関係をつむぐ場で、表も裏も光も闇もなかったら嘘だ。まぎれもなくそこに生きている、生活を営んでいる。その事実に向き合う。
各地域で既に何人もの方に取材をさせていただいた。よそ者には良いことをたくさん語る。でもじゃあ語られていないことは何だろう、と、それは自分で探るか、思い切って尋ねる。
すると断片のような形で、人の口に積極的にのぼらせたがらないような事象が、言葉の端に現れる。語尾が断定を避けたり、一人称が自分ではなくなったり(「と言われていますけどねえ…」みたいな)。
そういうしっぽを掴んで離さないときもあれば、それ以上触れずにふんわりさせておくこともある。後者の場合はヒントや引っ掛かりとして記憶の片隅にフックとして転がしておく。すると後で意外なものと整合性を持つことがある(ないことも当然ある)。

ずっと東京のマンションやアパートで、人工衛星のような暮らしをしてきたから、地域のネットワークは希薄で(できたての団地に引っ越してお互いゼロから人間関係をつくる必要があったり)、歴史ある祭など全く知らずに育った。
祭は役所が地域コミュニティを発展させるために人工的につくられ、どこも東京音頭とドラえもん音頭を踊るものとばかり思いこんで育った。あとはクラスにいた好きな男子が来るかも知れないとか、その程度。
高度成長期以降に東京の都心近くで生まれ育つというのは、そういうことなのかも知れない。

土に触れ、木に触れ、川を触り、風に触れられ、空に触ろうとする。
私は初めて「ここで生きる」ということの実感とリアルに触れているのかも知れない。

さて、南砺。

NOBODY KNOWS プロジェクト
(主催/文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会、公益社団法人日本芸能実演家団体協議会[芸団協])