2014年6月5日木曜日

母のドライフラワー

末期癌で弱って行き、亡くなる数か月前、母はひたすらドライフラワーをつくっていた。
台所と居間の間の仕切り布の天井近く、手の届くあたりに、
輪ゴムで止めた花束を何等かの方法でひっかけ、放置しておくと、
冴え冴えとした生花が、1週間ほどでドライフラワーになる。
それを、母は喜んでつくっていた。


あとから叔母に聞いたのだが、
ドライフラワーをつくることはあまりよくない、とのことだった。
生花を生きたままの形で殺すことで、つまり死を暗示するからだと。
私は花のミイラ化ってことか、と思った。


母が最後にホスピスへ入院する直前に吊るしていた花が、
葬式後もそのまま残っていた。
何らかの都合で、それは私の一人暮らしの部屋に運ばれた。
そのまま何年も、捨てるに捨てられず、大きな花束の形のまま乾燥しきったそれは、
さらに乾燥し、破片を周囲にまき散らしながらも、
部屋の一角を占めていた。


それを、数年前、やっと意を決して捨てた。
ものは壊れるが記憶はなくならない。
そう思ってえいやっと捨てた。
死後、何年たっていたのだろう。


親の死後、遺体をそのままベッドに寝かせておき、
「まだ生きてます」と言い張った新興宗教の信者が昔あったが、
それと似ている、と思う。