2018年11月9日金曜日

人とつながる回路。

先日、スマホに流れてきたとある事件のニュースで、その犯人がFacebookをやっていてこんなコメントがあったと書かれていたので、ふと思い立って検索してみた。
どんな日常を送っていたのか気になった。

食べたもの、町並み、行ったイベント…そういった写真に、ハイテンション気味の楽しげなコメントが付してある。
しかし、それらのどこにも、自分も他者も写り込んでいない。常に風景のみ。常に一人分の食事のみ。

この人は、常に一人で行動しながら、過剰に楽しい日常を演出し続けていたということか。
蓋を開けて見れば、過去にも多くの未遂事件を起こしていたという。ストーカー行為含む、性犯罪めいたものが多い。

岡目八目で周りからは何とも言えることだろうが、
人と繋がりたい欲求が強いあまりに、自らその回路を破壊しているように見えるのは、私だけか。

あるいはコミュニケーションにおいて、常に過剰さを求められているような気に陥った結果、一人を選択したのかも知れない。
わからない。

ただいずれにせよ、自分の中に地続きな弱さを見て、少し立ちすくむ。
そしてまた思う。
この人と私は、遠くない。


カポーティ『冷血』を思い出す。
死刑囚のドキュメンタリー取材をしているうちに、対象の中に自らを見いだす過程こそがドキュメンタリー化していく。社会性に担保されていたリアルが認識の作り上げるリアリティに侵食されていく。

我に返るために必要なことは、肉体に直接与えられる即物的な刺激だけのような気がします。
生活の細々したことや、食事をしたり、セックスをしたり、筋トレをしたり。


日々のささやかな営みが、他者とつながるための精神の健康維持にいかに大切かに思い至る。
大切に、過ごそう。