2022年12月7日水曜日

例のアレをアレしました③:「退屈」…なのか?

「今日も退屈だろうけど辛抱してね♪」と見舞いの言葉をいただく。
引き続き、アレをアレしたが故の宿泊療養生活が続いている。

ありがとうございます、と返信しようとして、ふと感じる違和感。

退屈…?
退屈なのだろうか…?
辛抱するほどに…?

自宅にいれば、ひょっとしたら辛抱の必要があるほど退屈なのかも知れない。
でも非日常的な空間で、日常とはかけ離れた生活を送っている今、
時間のたつのはあっという間で、いつの間にか日がのぼり、いつの間にか深夜である。

入ってすぐは、長時間座っているのもままならず、寝ている時間も多かったが、
3日目の今、ラジオ体操第一第二に加えて簡単なスクワットができるほどには体力が回復してきている。
集中力が回復しきっていないので、仕事に関わることはきちんとできてはいないが、
短いメールを返すくらいには思考力が回復してきている。

そして思い至るのは、そもそも退屈とは何か、ということである。
かつてはよく退屈を覚えていた。
もはや理解の範疇を越えた、高校の物理の授業。
教習所の座学(仮免で終わった)。
単位を得るだけのために選択した、大学の経済学の般教授業(グラフとか数字はとことん苦手)。

でも、生活するようになってからは、退屈を覚えたら、自分で回避するようになった。
居酒屋のアルバイトで客が来なくて退屈しているときは、何でもいいから仕事をつくる。
用事がなくて家で退屈しそうなら(そんな贅沢なことはあまりない)書類の整理やしばらく開けてない棚の整理など何かしらやることを見つける。
誰かと話していて退屈を覚えたなら(滅多にない)自分の関心のある話を放り込んで、意見などを聴く。
今日も、休み休みしながら調べものをしていたら、日が沈んでしまった。

つまるところ、退屈とは、与えられた環境に対してただ受け身であるがゆえに生じるのではないか。
そして、退屈している余裕など、実のところ、どこにもないのではないか。

退屈って、すごく贅沢なイメージ。
でぶでぶ色白、くるんくるん巻き髪の王子が、横たわってリンゴをかじりながら、
「ああ…世は退屈じゃ…何か面白いことはないかのう…」
って半裸で団扇を煽ぐ女官に呟いてる感じ。
一分一秒でも惜しい時間貧乏な暮らしをしてきた私としては、
退屈とか言ってる暇あったら風呂の掃除でもやろうよね、と思ってしまうのでした。

なので、辛抱するほど退屈、というのは、
どんな状況であっても、自分からは少し遠い現象だなあ、と思った。

…でもそれも、ネットで色んなものが見たり聞いたりできるからかな。
一昔前だったら、本や雑誌を読んだり、空の色を眺めたりして、退屈だな、と思ったのかも知れない。
そしてその「一昔前」は、そういえば、そんなに昔でもないですね。


でも、そこでさらに、ふと思いあたった。
自分はそもそも、本質的にずっと退屈で、
退屈を紛らわす術が年々上達しているだけなのではないか。
退屈から逃れるべく、外部刺激を探すことが上手くなっているだけなのではないか。


人生、暇つぶし。
そんな言葉は、売れた芸能人か、裕福なコピーライターが呟くカッコつけにすぎないと思っていた。
でも、そうじゃないと言い切れるだろうか。


こうしてブログを立ち上げているのも、退屈から逃れる一つの方法にすぎないのではないか。


では逆に、真に退屈に捉われたとき、何と出会うことになってしまうのだろうか。


……その実験をするには、今の自分はまだタスクがありすぎる。
そうして、仕事に逃げ込むのである。


昨日の朝ごはん。おにぎり。

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