2022年12月5日月曜日

例のアレをアレしました②:「1」の食事

こんにちは。
流行のアレをアレしたため、社会的営みからいったん離れて宿泊療養しております。
昨日公表された新規アレの数字の中の「1」は確実に自分。
生活もあり人間関係もありこれまでの時間もある、自分。
その自分自分の積み重ねが、結果として数字になっていることを、数字の側になって改めて実感しました。ああ自分「1」なんだなあ、と。

ウクライナ兵「1万」人、死者「10万」人。
東北大震災での死者「18131」人、行方不明者「2829」人、負傷者「6194」人。
熱海土石流災害死者「27」人、行方不明「1」人。…
それぞれの「1」が確実にあった。
命が"失われる"ということは、命が"有る"ものである限り当然の理なのではありますが、
それは絶対的な「1」であることを、「1」の側になった時に、やはり強く伝えたい気持ちになりました。

その「1」のホテル療養ライフですが、
提供される食事が、ちゃんと美味しくいただけるものであることに、ありがたさを感じています。
ネットニュースなので真偽のほどはわかりませんが、
陽性者・陰性者めちゃくちゃに突っ込まれて体育館のようなところで一斉管理されるとある大陸国とか、
公的保険制度がないため個人の医療にかかるコストが莫大で貧しい人は何のサービスも受けず酷いときはただ悪化して亡くなるしかなかった、とあるデモクラシー大国とか、
そういうのを見るにつけ、税金が医療・福祉にきちんと回されることのありがたさをつくづく思います。


入所1日目の晩弁当。













一品一品、丁寧な味付けで、それなりに美味しい。
お浸しも出汁が染みてる。
現場弁当ライフが長い身としては、これはちゃんとしていると思いました。
特に、左上のアサリご飯の上のアサリが、生姜ダレできちんと煮込んで味付けされてるあたり、やるじゃねぇか…と。


翌日の朝サンドイッチ。













久々にコーンスープ飲んだ。
パン厚くてしっかりしてる。玉子フィリングふわふわ。
みかんゼリー懐かしい味。


そして、いま終わったばかりの昼弁当。味噌汁はtake freeのインスタント。













人によるけど、男性にはちょっと足りない、女性にはちょっと多いかも?な量。
イカの天ぷらが柔らかくて美味しい。煮物嬉しい。


ケータリングの差配をしたことがある人には共感いただけると思いますが、
滞在者を飽きさせないようにしてる工夫がとてもよく伝わります。
何もすることがないホテル療養、食事が最大の関心事になるので、これはとてもストレスの減ることです。
そしてこれらは皆、税金で賄われている。
感謝しかありません。

舌ばかり肥えている都市部の人間のハラを、医療目的で確実に満たすには、
それなりの工夫が必要なんだねえとほとほと実感しつつ、
「1」としての暮らしを粛々と送るのでした。


nick


例のアレをアレしました①:自宅から施設へ

こんにちは。ご無沙汰しております村野です。
だいたいこのブログを立ち上げるときは、ブログを立ち上げるくらいしかやることがないという時に限ります。それほどに、定期的に何かをし続けるというのが苦手です(夏休みの絵日記は最終日に一気に仕上げるタイプでした)。
そんな私がいま立ち上げている。ということは、はい、そういう状況です。

例の、流行りのアレをアレしました。

現在は、とある宿泊施設の一室で、窓から覗けるほんの少しの空を眺めながら暮らしています。

そう、ザッツ・ホテル療養。

先日まで自宅療養していたのですが、
(就寝中のバイオリズム低下)+(乾燥防止目的でマスクをして寝た)+(熱心なウィルスの営業努力) ※自己診断
によってか、明け方に呼吸困難に陥り、パニックを起こしたのでした。

マスクをとっても窓を開けて新鮮な空気を入れても、息苦しさは変わらない、酸素が入って来ない、楽になるかもと思い横たわるとさらに息苦しくなる、
という短時間の一人悶絶の末、とにかく助けを…と「自宅療養サポートセンター」に電話を入れました。
申し訳なさそうにマニュアル通りの質問を繰り返す、おそらく時給労働の深夜~早朝シフトの青年スタッフ。「お名前は…生年月日は…発症日は…お電話番号は今表示されているもので…もし連絡がつかなくなった場合のお電話番号は…」

こっ…これは…死ぬ。

そして、仮に電話中に意識が途絶えても、救急車を呼んではくれないらしい(そういうルール)。
自分で呼ぶしかない。

青年が担当医に相談した結果、とにかく救急車呼べと言われたとのことで、迷いながらも119。
救急車が着くまでの間、万一何かあったら対応してもらうために、知人に電話をつなぎっぱなしにしてもらった。
相変わらず息は苦しい。心細かったのだろう、涙腺が決壊した。
「ごべっ…ごべんねぇ…ごべっ、ごべっ」
息苦しいだろうから喋るなと諭され、すーはーしながら座して待つ。
涙が鼻水になってさらに鼻が詰まり、魚のように口をはふはふする。

玄関チャイムが鳴り、救急隊員が来た。扉を細く開けると、頭からつま先まで、全身防護服のおじさんたちが覗き込む。
「マスクしてくださーい」といの一番に言われ慌てて装着。
おじさんたちはずんずんと入って来ると、とにかく換気を、と窓と玄関を全開に。
朝の冷たい風が家の中のウィルス蔓延であろう籠った空気を一掃した。

しばし問診。
結論から言うと、病院搬送はお断り。
症状が安定しているので、とのこと。
(こ…これが噂の、「病院搬送お断り」か…!)
なんだか柔らかい雰囲気で煙に巻かれて、あげく「搬送されないことを承諾しました」といった文書に自筆サインをさせられ、もじゃもじゃした気分を残しながら一人残されて終わった。

…自宅療養継続。
果たしてこれは、どうにかなるものだろうか。

同居人がいて、何かあった場合に対応してくれるならまだいい。
(その人には普段の生活において多大な迷惑をかけるとは思うが…)
しかし、一人暮らしで、もし意識がとんでしまったら、そのまま放置ということになる。
十分な酸素が脳に供給されないままに長時間放置されたら、確実に何らかのダメージが遺る or 死ぬ。

お迎えが来るにはまだ早い。
まだ何もやり遂げてはいないのだ。
体力だってまだある。
ここで死ぬわけにはいかない…

と考えるまでもなく、医療関係者である妹の勧めに従い、ホテル療養に切り替えることにした。
一人暮らしの自宅療養は、どう考えたって無理がある。

夕方になり、ホテルが決まったとの連絡が入る。
息苦しさはまだ残るものの、だいぶ症状が安定していたので「このまま自宅でいけるかも?」と一瞬よぎったが、
初めて直面する症状に、素人がググりながらセルフ対応することの限界を思い、
素直に移動することにした。

翌朝、ホテルまで送ってくれるタクシー運転手から電話が入り、
13:15に到着するとのこと。
午前中に、知人が親切に送ってくださった自宅療養用の差し入れが届く。
(それも、宅配センターから「誤って別の配送所にいってしまって午後になってしまうかも知れずすみません!」といった電話が入ったのですが、「ホテル療養に行ってしまうので受け取れません、療養に必要なものが入ってるのですが…」と粘ったら、膨大な荷物の中から探し出して単独便を手配してくれました。ヤ〇ト運輸すごいありがとうございます)

13:00。出発する準備も終わり、カートとリュックを揃えて座して待つ。
「しばらくここも見納めか…」と白湯を飲む。
なんだかんだで自室はやはり楽でありがたいのである。
変えたばかりの浄水カートリッジで汲み溜めた水が、惜しい気になっている。

13:10。
ピンポン。
玄関チャイムが鳴る。
出て見ると、宅配業者だった。
「(自宅療養用の)食糧の配送と、パルオキシメーターです」
え…今?

段ボール2箱分の大量の保存食と、
返却用封筒も同封されたパルオキシメーター。
特に後者、これがもっと早くあったら、私はホテルに行かなかったかも知れない。
(パルオキシメーターが手元に無いことが不安の一つでもあった)
だがもうキャンセルはきかない。いやしても私個人の損失にはならないだろうけど何かが無駄になるし、タクシーがもう来る。
いまここ療養先のホテルでは、パルオキシ~は各人1台貸し出されるので、不安になると計測している。

結論として、選択は間違いではなかったと思う。
看護師や専門スタッフ(時給雇いでマニュアル読みのバイトではなく)が24時間体制で常駐してくれているのはありがたい。
弁当も悪くない。現場弁当ライフを重ねてきた身としては、むしろ美味しい方だと思う。


昨日まで横たわっている状態が長かったが、
今日は少し座りが維持できているので、諸々忘れないうちに記録した。
リハビリを兼ねて、まだもう少し続くと思う。
(関係者に迷惑がかからないよう、積極的な公開告知はしません)


nick



2021年9月22日水曜日

飲みに行かなくなった。

コロナ禍での日々は続く。
ビフォーコロナと何が大きく変わったかって、とにかく飲む機会が減った。
ビフォーはとにかく飲んでいた。現場がないときは、金があろうがなかろうが、毎日違う人と飲んでいた。
いま思えば、何と戦っているんだろうと思うほどに飲んでいた。
夜はだいたいが千鳥足だった。

オンライン飲みも会話ができるので嫌いではないが、
画面を切ったあとに、ああやっぱり実質的には1人だったんだな、と思う。
通常の飲み会と大きく違う点、たくさんあるなかのひとつは、酔って千鳥足で家まで帰る道のりがないことだろう。
あの距離と時間で、宴の終わりを体に馴染ませていく。
ああ楽しかったなあ、あの発言にこう返したのは失礼だったかしら、いや向こうも酔っていたし、わざわざ謝ることでもなかろう、などと酔った頭で考えながら電車に揺られて帰る。

オンライン飲み会はそうもいかない。じゃあね、ばいばい、で即座に終わる。
あのデジタルなオンオフに、体感がついていかない。

移動がないことはとても便利だ。打合せにはありがたい。
でも、人と交わりたいとき、やはりオンラインでは満たされない何かがある。それが多少面倒なことであっても。

2021年9月2日木曜日

たまにつかまる影

現場がないとき、たまに後悔につかまる。

特に家族連れを見ると、子供を持たなかった自分の人生を後悔する。

だが子供を連れている自分を想像してみると、
その自分はやりたいことを100%やれずにいる人生を後悔しているだろうと思う。

つまり、どう転ぼうが後悔してるだろうから、
後悔することそのものが無駄だということ。

そんなことを、
煮物用の食材を片手に、トレペを片手に、
傘をさして歩きながら考えた。
いつものこと。

引きこもり用に、鶏手羽元の煮物を大量にこさえるのだ。

2021年3月21日日曜日

「ふるさと」に足を向ける。

昨日、ゆえあって「公団」について調べていた。高度経済成長期に大量の労働力が都市部へ流れ込み、住宅を供給する必要が出来てつくられた。
都内や郊外の公団を調べていたら、品川区にある「八潮パークタウン」にいきあたった。完全な埋め立て地で、69号棟まであるマンモス団地だ。
地図を調べてみると、特養があったり、介護施設があったり。学校が一つ、どんとあったり。児童館や図書館もある。
これは暮らしやすそうだと思い、行ってみることにした。

…何のことはない。実家である。

少子化が進み、かつて通っていた小学校は廃校となって地域コミュニティ向けに開放されていた。
隣にあった中学校は特養になっていた。
思うことは山ほどあったが、ほぼ20年ぶりに歩いたので、正直まだ整理がつかない。
結論を言うと、過去と今がつなぎ直された気がした。

***

調べものとして 「八潮パークタウン」 の情報に接している間に、介護の求人情報などもあり、
なぜ今自分がこの人生に固執して、しがみついて、必死に生きようとしているのか、一瞬わからなくなった。
全て投げ出して、実家近くの介護の求人に応募し、実家には帰らずとも、老いていく父の面倒を見ながら今の家と八潮を往復する暮らしをすればよいではないか。
ふとそんなことを考えた。
私は今の選択を終えるという選択も、今は可能なのだ。

そんなことを思いながら八潮に向かった。
モノレールの始点、浜松町駅に行くまではさほど問題はなかったが、
浜松町から大井競馬場前まで向かう道中、頭がどんどん混乱していった。
運河があり、物流の拠点となる倉庫が立ち並び、海洋大学があり、白波を立てて進む船があり…つまり、人の生活とは真逆の光景が、しかも見ないうちにさらに開発されたらしく、どんどん殺伐とした印象が強くなっていくのだ。
「空港に行く」ならまだわかる。だが「実家に行く」という言葉のイメージとは解離している。
ただいまーといって宇宙ステーションに帰って行く幾世代後の子供たちのことが自ずと想像された。
人の住む匂いが全く感じられない建物群を、緩いジェットコースターのごとく斜めにかしぎながら進むモノレール。スピードも、昔より早くなった気がする。
このモノレールに乗って、小学校時代はお受験塾に通ったはず。こんな漫画のような近未来的な乗り物に、よく怖がりもせず乗っていたものだ。
若干の恐怖心を覚えながらも窓の外を見続けていると、画一化された印象のマンション群が見えてきた。「八潮パークタウン」だ。
降りた駅は大井競馬場前駅。バスを除けば、ここが最寄りの駅だった。

駅からの道。何百回と、何千回と見た風景。飽き飽きして、うんざりして、ここが世界の全てだと思うことに苛立ちを覚えていた。
ここではないどこか、遠く離れたどこかに行きたかった。走り出したい衝動に駆られ、何度も家を飛び出しながらも、結局どこに行くこともできず、生活のために戻る場所。
果ては、遠くにありて思うもの。
つまり、ここは、私にとって間違いなく「ふるさと」だった。

かつての全世界を、しばらく歩き回る。
小さな抜け道も全て体に叩き込まれている。場所で記憶が立ち昇る。もちろん変わっている場所もある。だが元の景色が脳内のどこかに淡くとも確実に残っている。
間違いなく、私は日々ここにいた。

1985年、私が引っ越して来た当時はまだ子供が多く、小学校も3つあった。
統廃合を経て、今は小中学校合わさったのが1つ。
走り回っている子供や歩いている大人はだいぶ減ったし、唯一あるスーパーの駐輪場も驚くほど自転車が少なかった。
かつての唯一の銀行が介護スタッフ派遣オフィスに、レストランが障碍者用居住施設に変わっていた。
タガログ語で会話する家族とすれ違った。
英才教育目的か、幼い息子と英語で話そうとする、身なりの整った母親がいた。
図書館には勉強する学生よりも、絵本を選ぶ母子よりも、高齢の方が多かった。
これらは八潮だけでなく、多くの地域で見られる現象だろう。

今は住民やNPOに開放されている、自分の通っていた元・八潮南小学校にも行った。建物はそのまま。
転んで指の骨にヒビ入れた中庭(通称ピロティ)とか、卒業前に班ごとに作ったサンドイッチが失敗作で教頭先生に言い訳した多目的室とか、
図工の先生に「保健の〇〇先生と恋人なの?」と質問したらなんか怒られた図工室とか、着替えめんどくさかったけどわくわくしたプールとか、
場所により、断片的に色んなことを思い出した。
あと、よく夢に出て来る場所としての学校があって、それがずっとどこだかわからなかったのだが、この小学校がベースになってることがわかった。
思春期を過ごした中高のインパクトに押しやられてすっかり忘れていたが、むしろこっちが原風景だったのだ。

ひたすら歩く。
公文があった地域施設、習字の教室から帰る近道。
各号棟の数字から、当時そこに住んでいた友達が浮かぶ。バイバーイ。 ××ちゃんと〇号棟のエレベーターホール集合ね。 あとで△△んち行こうぜ。〇号棟の501な。
たぶん、どこの町の、どの地域でも、子供たちの間では同じような会話が行われてきただろう。
地域が特殊性を若干加えるだけで、目的と行為は変わらない。

***

所用あり父に連絡し、荷物のために帰路は車で送ってもらったが、これまた湾岸道路。
新しくつくられた道を間違え少し走り回ることになったが、それも全てベイエリア。人気は一切なく、物流の拠点のような場所。走るのは高級車ではなくトラックやダンプ。
飲食店もコンビニもない。
かつてこうして父や母の運転で、殺伐とした地域をさんざん車で移動したことを思い出すうちに、私が工場や倉庫、工場跡の施設がどうにも気になる理由がわかった気がした。

「ふるさと」と言えば田畑だったり山や川だったりするイメージがあるが、
私にとってはそれが、排気ガス臭い倉庫群であり、海運のための船であり、鉛臭い潮風であり、無人の歩道だったりするのだ。それこそが私の原風景なのだ。
むしろ山川や田畑は、私にとって懐かしいものでも何でもなく、非日常のアミューズメントだ。かつて遠足や合宿で行ったり、今は人と遊びに行く場所にある風景であり、それなりに整備された娯楽エリアなのである。
伝統や祭りに憧れがあるのは、それらが無い地域に育ったからかも知れない。ないものねだりだ。
品川というのは、宿場町として発展し、鈴ヶ森刑場があったり、様々な歴史ある場所なんだよ、というのは確かに小学校で習った。
だが自分が暮らすのは海の上の埋立地であり、どこに行っても「海抜〇m」という掲示がある場所であり、地域史はよその国の話に思えていた。リアリティがまるでなかった。
自分たちの暮らす地域について考えよう、という授業はなかった気がする。明治以降の産業の発展や公害、物流と組み合わせれば、この地に暮らすがゆえの独自の視点を養えたかも知れない。埋め立て技術の発展史とか。
品川区には「源氏前」「立会川」「青物横丁」など、人の営みイメージが立ち上がる地域名がたくさんある。
だが八潮パークタウン内にはない。区画全てが記号。せめて「八潮」だけでも、と思っていたら埼玉県にもあると知ってしょんぼりした。
宇宙ステーションに暮らしていた印象がますます強まった。

2003年に母が亡くなってからは、実家に足を踏み入れたことはない。
もちろん、八潮パークタウンは暮らしやすいところだろうし、緑も公園もたくさんあり、バスも巡回しているので交通の便に問題はない。
バリアフリーについても十分配慮してあり、車椅子でどこでも行けるようになっている。
だがその人工的な親切が、おかしなものに思えてならなかった。

団地暮らしに根本的な違和感を覚えていたのもあり、高校を出たら寄り付かなくなった。
人のぬくもりが欲しかった。
反動で、ぬくもりどころか暑苦しい演劇にのめり込み、今に至る。
だがその人間そのものの営みの中でも、いやそれゆえか、特にオリジナル作品を作ろうとするときに、どこか記号や無機質な空間を思い描いてしまう。
例えば、自分で戯曲を書くときは、どうしても名前がつけられない。「女1」「男1」、仮に名前があって劇中で呼び合うとしても、役の表記に名前を明記することに違和感を覚える。
思い込みなのだろうが、名前がそれだけで何かを表してしまうような気がしてならないのだ。
その理由はなんだろうと不思議に思ってきたが、おそらく育ってきた環境で培った感受性にあったのだろう。

***

工場や倉庫、運河を渡る貨物船、区画化された地域を思うとき、私は認識のどこかで「ふるさと」を、「ふるさと」に対する違和感を感じている。
昨日初めてそのことを自覚したとき、過去と今がつながった気がした。

2021年3月19日金曜日

おじさんと目が合う。

過日、現場でのこと。
稽古場で録音をするために、静寂をつくる必要があった。
細い通りに面したスタジオで、外であまりに騒がれると、室内のマイクが拾ってしまう。

リハーサルを終えていざ録音というタイミングで、ガランガランと派手な音が聞こえてきた。
何事かと驚き飛び出すと、おじさんが自動販売機の横にあるゴミ箱を漁っている音だった。
「すみません…すみません、今ここで録音してるんで、大きな音は控えていただけますか」
お願いをした。
「…」
手を止めたおじさんは、漁る手を止め、どこかで手に入れたらしきコーラをぐびぐびと飲んだ。
そばにあるリヤカーには缶やペットボトルが整理され積まれている。おじさんは仕事をしているのだ。
「今、録音をしているので…」
コーラを飲むのをやめたおじさんは不思議そうな顔で私を見て、「あ?」と言った。
「ですから、今、この中で録音を…大きな音をたてないように…お願いします」
おじさんは再びコーラを飲み、不思議そうな顔でじっとこちらを見る。話しかけられたことそのものに驚いているようだった。
と同時に、お願いされているという事実を理解できず、俺はあんたの頼みを聞く必要などそもそもないのになぜあんたは俺に頼むのかという、自由の極致にある表情をしていた。ある意味で、社会性から完全に開放されている。

ああそうか。
見ず知らずの人でもきちんとお願いをすれば聞いてもらえるというのは、全くの私の幻想だった。
甘えであった。

おじさんはしばらく私の顔をじっと見続けた後、何かもにょもにょ口の中で言って、つとその場を立ち去って行った。
あるいは、ひょっとすると言葉か、聴覚が不自由な人だったのかも知れない。

コミュニケーションが成立する状況に慣れ過ぎた。
懸命に生きてるつもりでいて、いつの間にか惰性的な回路が作られていた。
新鮮さを取り戻していければと思うが、できるだろうか。


nick

2021年2月28日日曜日

『かたひと』

大学8年生の夏、身近な先輩方にご指導たまわりながらも『かたひと』という1時間ほどの小作品をつくった。
引きこもりの男の家に、生きた女が届く。女はひたすら男の言う言葉を繰り返す。
本来、他者は自我の過剰な充足を妨げるものだが、
この女は逆で、自我を無限に広げる役目をする。物理的には他者でありながら、関係性上は他者ではない。
イエスマンとはまた違う従属関係。言わば鏡。
人はこのような、自らを映し出す鏡のような他者を目の前にしたら、どのような行動をとるのか。
ある種の自我実験をしようと思った。


社会に背を向け、引きこもりという自己否定的行動をとっている男は、
鏡を壊すように目の前の女を破壊しようとする。
それでも女は模倣をやめない。
やがて男は女を抱きしめる。そうすることで自らを抱きしめる。
引きこもりをやめ、部屋から出ることを決意する。
そんなような内容だった。(台本データはどこかにある)


今考えれば、人間の複雑さもわかっていないし、セクシャルな欲動が排除されている。そういう意味ではリアルとはかけ離れている。
それでも、ひとつの関係性の鋳型を描いたように思える。
頭の中が抽象でいっぱいだったあの頃、精一杯の背伸びだった。


場所はタイニイ・アリス。
この時の出演者たち、確か5人だった気がするが、うち4人は芝居をやめて別の仕事で元気にやっている。


過去資料を整理していたら、このときのチラシ(ポストカードサイズ)が出てきた。配り切れず余ったチラシ、100枚以上はある。
20年近く、ずっと捨てられなかった。どんなにへたくそで実力不足でも、必死の愛情を持って作った公演。その記憶。
やっと、部屋の片隅のリサイクル袋に入れた。


過去にする努力。


nick