2018年10月15日月曜日

現場潔癖症。

現場内恋愛というものが、昔から苦手であり、嫌いである。
たぶん、学生劇団の頃についてしまった癖なのかも知れない。
ユニットに参加したり、自主公演を打つようになったりするうちに、それが確信というか、
信念に近いものと化していった。
おかげで未だに生活に下ろす錨はないまま、漂泊の身である。

学生劇団の頃は、みなさん学生であるわけで、誰が好きだ、誰がふられただの、数多くあった。
浮気をしただのされただの、誰とかれとが別れただの、噂の種が尽きることはなかった。
稽古のない日にわざわざ楽屋でノートを広げ、
先輩と1日中、人物相関図をつくりながら噂話に花を咲かせた。

と、楽しかったのはそこまで。
学生であるままに、学外のユニットに出演した際。
打上げで、若い二人がくっついた。というか、買い物に行ったまま戻ってこなかった。
他の役者が「あの二人、付き合ってるんですよ」と主宰に笑い半分でチクったら、主宰は激怒した。
「みんなで汗かいて必死に芝居つくってるときに、あいつは女のことしか考えてなかった。
あいつが芝居できないせいでどんだけ周りが苦労したと思ってんだ。破門だ」

破門という言葉を日常で初めて聞いたし、
確かにそいつはどうしようもない奴だったので、驚き半分、納得半分でそのときはおさめた。
その後、戻ってきたそいつが主宰に土下座していた記憶がうっすらあるが、打上げ会場で見た夢かも知れない。

今思えば、それが主宰にとって最後の賭けのような公演で、
経済面でもよほど苦しい思いをしたらしく、そこでユニットをたたんでしまった。
でも、そんな苦しい公演だったからこそ、現場の誰かは恋愛に逃避したのかも知れない。

それ以来、そのことがずっとひっかかっていた。 
そして、自分が正にその主宰の立場になったとき、ほぼ似たような経験をして、おそらく同じ感想を抱いた。
恋愛は生きる上で大きなモチベーションになる。芸術活動においてもそうだと思う。
けど時として、その甘美さゆえに、目の前にある闘うべき現実から逃げる口実となってしまう。

恋愛は虚構である。
演劇における稽古は、虚構をつくりあげるための営みである。
前者は果てしなく甘美であり、後者は甘美さに至るには厳しい局面をいくつも乗り越えなくてはならない。
誰が後者を自然と望むだろうか?

恋愛をするのは勝手である。どうぞ好きになさったらいい。思う存分、惚れた腫れたをすればいい。
だが稽古場に足を踏み入れたら、そこにある最優先課題は演劇であってほしい。

金を払って見る客は、裏にある恋愛事情など関係ないのだ。
その芝居が面白いか否か。ただそれだけである。
瞬間瞬間の積み重ねに対し、どれだけ真摯でいられるか、楽しく、厳しく、向き合えるか。
チャラチャラしている暇は、一瞬たりともない。
惚れるとしたら、演技であれテクニカルであれ、その相手の仕事に恋をするのが筋だと思う、

間違っているだろうか。
私は頭が固いのかも知れない。

深夜の戯言でした。

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