2018年10月24日水曜日

夜の来訪。

とんとんとんとん。とんとんとんとん。
ご近所付き合いも一切なく、宅配の再配達依頼もしていない中で、
21時半を過ぎてドアをノックされるなんて、まずまともな状況ではない。
先週しつこく食い下がったN〇Kの集金人かと思い無視していたら、「すみません」と女性の声。
よほど用事があるのだろうと思って開けたら、子連れの若い女性と、恐らく60代半ばと思われる女性が、二人揃って覗き込む。
思わずいったんドアを閉めてチェーンをかけた。そんな方々に、夜に来訪される言われは全くないのだ。

聞けば、マンションの下のフロアに住む方々で、騒音で夜も眠れず、原因を探して歩いているとのこと。
女性二人は親子ではなく隣人同士で、ご高齢の方が被害に遭われているらしい。
昼夜問わず響く重低音に、心臓がおかしくなるほどに悩まされているという。
今は寝るために別室を借りているとのこと。

私は、自分は一人静かに暮らす身であること、駆けまわる子供もいないこと、
洗濯機を回す時間も気を付けており、テレビもステレオもない暮らしであること、
家にいる時間帯はごく短いこと、などを告げ、何か気づいたことがあればお伝えすると述べてその場を終えた。
思わずネットで見ていたニュースの音量を下げたが、その程度の音が他部屋に漏れているようなら、互いの暮らしはもっと筒抜けなはず。
バカバカしくなって音量を戻した。
おまけに、妙に自分の生活が寒々しく思えてしまった。

他者と共存するというのは、いったいどういうことなのだろう。
私は立派な両親のおかげでマンション暮らしが長いけど、昔は私程度の収入の町人は、おそらく長屋暮らしが多かった。
幼い頃に家族で暮らした都営アパートは長屋のような感覚が残っていて、隣の家にひょいと醤油を借りにいくような関係性だった記憶がある。
今はそんなときはコンビニに走るだろう。隣人と話す機会など、まず無い。

とんとんとん。とんとんとんとん。
先ほどのノックの音で、その結界が破られたような気がした。
正直、すごく怖かった。取り立てられるような借金は、もう無い(はず)。新聞もとっていない。
ドアチャイムもあるのに押さない。あくまでノックのみ。
その、プライバシーを脅かされる感覚ったらない。
「すみません」の声が女性でなかったら、絶対に開けなかった。
でも女性であるからといって油断はできない。
理由なき殺人がこんなにはびこる世の中なのだ。

「なんでしょう」扉を開けた私は、正解だったのだろうか。無防備すぎるのではあるまいか。
ひょっとして、子供を含んだこの3人連れは、界隈をリサーチしているのかも知れない。
指を1本ずつ、鼻の孔に入れてこちらを見ていた男の子。君は自分の役割をどう任じていたのだ。
そんなコケティッシュな振る舞いが、大人の警戒心を解くと思ったら大間違いだぞ。
どれだけこちらが馬鹿を見て生きて来ていると思っているのだ。子供の馬鹿など、大人の馬鹿に比べれば、たかが知れている。
自分の馬鹿も含めた話。

などと、妙に怖い思いをした。
いま、横溝正史ワールドに関わっているからかも知れない、隣人が怖い。
哀しい時代になったものだとも、同時に思う。
隣人に素直に扉を開けられるようになる日は、また来るのだろうか。

2018年10月15日月曜日

現場潔癖症。

現場内恋愛というものが、昔から苦手であり、嫌いである。
たぶん、学生劇団の頃についてしまった癖なのかも知れない。
ユニットに参加したり、自主公演を打つようになったりするうちに、それが確信というか、
信念に近いものと化していった。
おかげで未だに生活に下ろす錨はないまま、漂泊の身である。

学生劇団の頃は、みなさん学生であるわけで、誰が好きだ、誰がふられただの、数多くあった。
浮気をしただのされただの、誰とかれとが別れただの、噂の種が尽きることはなかった。
稽古のない日にわざわざ楽屋でノートを広げ、
先輩と1日中、人物相関図をつくりながら噂話に花を咲かせた。

と、楽しかったのはそこまで。
学生であるままに、学外のユニットに出演した際。
打上げで、若い二人がくっついた。というか、買い物に行ったまま戻ってこなかった。
他の役者が「あの二人、付き合ってるんですよ」と主宰に笑い半分でチクったら、主宰は激怒した。
「みんなで汗かいて必死に芝居つくってるときに、あいつは女のことしか考えてなかった。
あいつが芝居できないせいでどんだけ周りが苦労したと思ってんだ。破門だ」

破門という言葉を日常で初めて聞いたし、
確かにそいつはどうしようもない奴だったので、驚き半分、納得半分でそのときはおさめた。
その後、戻ってきたそいつが主宰に土下座していた記憶がうっすらあるが、打上げ会場で見た夢かも知れない。

今思えば、それが主宰にとって最後の賭けのような公演で、
経済面でもよほど苦しい思いをしたらしく、そこでユニットをたたんでしまった。
でも、そんな苦しい公演だったからこそ、現場の誰かは恋愛に逃避したのかも知れない。

それ以来、そのことがずっとひっかかっていた。 
そして、自分が正にその主宰の立場になったとき、ほぼ似たような経験をして、おそらく同じ感想を抱いた。
恋愛は生きる上で大きなモチベーションになる。芸術活動においてもそうだと思う。
けど時として、その甘美さゆえに、目の前にある闘うべき現実から逃げる口実となってしまう。

恋愛は虚構である。
演劇における稽古は、虚構をつくりあげるための営みである。
前者は果てしなく甘美であり、後者は甘美さに至るには厳しい局面をいくつも乗り越えなくてはならない。
誰が後者を自然と望むだろうか?

恋愛をするのは勝手である。どうぞ好きになさったらいい。思う存分、惚れた腫れたをすればいい。
だが稽古場に足を踏み入れたら、そこにある最優先課題は演劇であってほしい。

金を払って見る客は、裏にある恋愛事情など関係ないのだ。
その芝居が面白いか否か。ただそれだけである。
瞬間瞬間の積み重ねに対し、どれだけ真摯でいられるか、楽しく、厳しく、向き合えるか。
チャラチャラしている暇は、一瞬たりともない。
惚れるとしたら、演技であれテクニカルであれ、その相手の仕事に恋をするのが筋だと思う、

間違っているだろうか。
私は頭が固いのかも知れない。

深夜の戯言でした。

2018年10月13日土曜日

深夜のぐずぐず。

自分は才能がないから自分の公演も打たず、人の公演の手伝いばかりして演劇をやっているような気になり、
一番行うべきことを先延ばしにし続けているのではないか。

そういった葛藤に捕われだしたら止まらない。
自分は永遠の便利屋となって、そのまま宇宙の藻屑と化して行くに違いないという、
粒子レベルに粉砕されただいぶ先の自分の変わり果てた姿までを夢想して、
現世に暮らすことの儚さ、そして自分の勇気の無さを呪う。
呪った挙句に鬱になり、卑屈になり自分を責め、飽きた頃に勝手に「まあいいか」と自動的に切り替わる。
便利だか不便だかわからないこの性格を自ら把握するまでに40数年かかっている。

公演を打つというのは、とっても大変で、地味で、金がかかってエネルギーもかかって、
とにかくやることが多い。
一人主宰だとなおさらだ。
手折り込みだって一人でいく。1000部のチラシをかついで行って肩を壊しかけ、おまけに稽古に遅刻して自己嫌悪する。
赤字が出たらぜんぶ背負う。そして毎回確実に赤字は出た。それも自分の予算配分が下手なせい。
終った直後からバイトに励み、ある日、帯状発疹で動けなくなった。
医者に「頑張りすぎちゃったね」と言われた。2週間、強制的に活動停止。
それ以来、通常規模の小劇場公演には手を出していない。
無理だなぁ、と思ったから。
限界だ、と思った。

今は、たまに小さな企画を打って、あとは修業やら仕事と称して他の現場にお邪魔したりしている。
でも、何だかそれも、もういいかなって思えてきた。

どの企画も勉強になるし、興味深いし、精一杯働こうと考える。
どの現場にも、呼んでいただけるのは本当に、本当にありがたいことだ。
しかも生活に直結しているからなおさらだ。

でも、その先にあるものは何だろう。
今の私のやり方の行きつく先は、究極の便利屋になるだけなのではないだろうか。

…などといった迷いが立ち現われた。
いやそれはもう何度も現れては都度消していたのだけど、もう消せないレベルにまで来ているようだ。

といったところで、現場に入れていただけるのは楽しいし、思わぬものを発見したり、
自分だけでは絶対にやらないことをやることになったりする。
えーって思うこともあるけど、まあやってみればそれはそれでどうにかなったりもする。
関わる人によって習慣が違ったりもするし、共通することもあるし、
どこにいってもやっぱり舞台への興味は永遠に尽きない。

でも、本当に、このままでよいのだろうか?

といったところで、やらなくてはいけない作業は目の前にあるし、明日も稽古があるし、生活は日々続いて行くし。
突っ走るしかないんだけど。

本当に、このままでいいんだろうかと、ちょっと立ち止まりたくなってみただけ。

今の環境に、心から感謝しています。
それは変わらない。

ただ一方で、どうにもならない葛藤が、無視できないレベルになってきているのも事実。

というわけで。
そろそろ、新作について、本気で考えだそうと思います。

でも、それはそれで、ぐずぐずと。


おやすみなさい。

2018年10月7日日曜日

風呂の蓋の効用、つまり日常における価値の再発見。

うちの風呂には贅沢にも追い炊き機能があるのだけど、なんだかあったまらないなぁと思っていた。
40度で設定しているのに、入ると体感38度。ぬるま湯。
もう故障か、いくらこれでとんでいくんだろうと思っていたが、
ある日ふと、「蓋をしないでわかしているせいなのではないか」と思い立った。
ためしに蓋をしてわかしてみたら、ちゃんと体感40度の、入った感のある温度になった。
風呂の蓋の効用。
その再発見。

甘く見ていた、風呂の蓋。君はあってしかるべきだった。
掃除がめんどいから、風呂に入っている最中には単なる邪魔なものだからといって忌み嫌っていた。申し訳ない。

風呂の蓋の効用。知らずに無碍に扱い、不都合に首をひねる。
こういったことが他にも多くある気がしてならない。
えっそれそういう意味があったの?知らなんだ~。なんだ、知ってたらもっと早く使ったのに。
気づかないうちに、何かのポイントを逸らし続けてしまっているような気がした。
立ち止まって、改めて見つめ直すことの大切さを知る。

これもまた、風呂の蓋の効用。

ありがとう、風呂の蓋。

これから思うままにあたたかい湯に浸かれると思うと嬉しい。

2018年10月4日木曜日

久々の更新。

毎日毎日、メールを打ったりデータをつくったり電話したりしているうちに日がたって、
いつの間にか、今年もあと3ヶ月というところまできてしまった。

年始にたてた目標をどれくらいクリアできたのかわからない。
そもそも、目標などどこかへ行ってしまった。

トマトが安くなったなぁと思ったら夏が来て、
トマトがまた高くなったなぁと思ったら秋に突入していました。
トマト100円以下、ありがたかったなぁ。
ほぼ毎日、トマトと何かをどうにかしていただいて暮らした2018年、夏。

色々あって、トルコのチェシュメに10日くらいお邪魔したことを思い出す。
陽光が強いせいか、野菜の味がすごく濃かった。
トマトと山羊のチーズを焼いて、バゲットに乗せていただいたのが、シンプルでとても美味しかった。
エーゲ海でちゃぷちゃぷした。

今年はろくに酒も飲まず、バカンスにも行かず、時間があれば何かしらして過ごしてきた。
いつの間にか歳をひとつとっていた。

今年はろくに本も読めていない。
乾いているのか、潤っているのか、よくわからない。

ニュースもちゃんと追えてないから、社会がどうなっているのかよくわからない。
でもそのニュースも、本当に社会を映し出せているのか心もとない。
結局は自分の感覚に頼るしかない、というところに帰ってくる。

自分の感覚がどこかにいってしまいそうな気がしたので、更新してみた。
また思いつきで何かメモ書きします。

nick