2014年12月9日火曜日

1209雑感




映画や本を、じっと見て居られない、読んでいられない。芝居や映画館では席を立てないので中断することはないが、
必ずどこかで違うことを考える。他愛のないこと、晩飯何食うかとか、私の人生どうなんだとか。だいたい晩飯のことが多い。つまらない内容のときは特に。


ブコウスキーのドキュメンタリDVDを見ながら、何度も中断して他のことをする。煙草を吸う、ゲームをする、皿を洗う、コーヒーを飲む。30分持てばいい方だ。
とにかく飽きっぽい。


ブコウスキーは毎日書いていたという。すがるように、ただそれだけが生きていることのように、書いていた。
彼にとっては生きることが書くことだった。
オースターも似たようなところがある。
二人とも、詩人だった。
ブコウスキーは短篇、オースターは短篇を経て長編にいく。
私はどうなんだ?


無意識に、共通点を探そうとしながら見てしまう。でも成功した人間についてのドキュメンタリーだ、
闇の部分など成功のエッセンスにすぎない。
自分も成功できる。酒と煙草とセックスと抑圧された生活を切らしさえしなければ。
そんな勘違いに傾きかけるが、そういうことじゃない。
孤独の形は、誰も似たようなもので、その実どれも似ていない。
人それぞれの顔をしている。


過剰な折檻を受ける。今はそれを虐待という。
たいがいの虐待など大したことではない。心に傷をおった、自尊心が激しく損なわれた。
それが何だ。
ブコウスキーはガキの頃、さんざん裸のケツを鞭でひっぱたかれた。
そして今私が見ているのは、結局、そのときに受けた衝撃を形にできたレアケースを描いているドキュメンタリーだ。
肝心なのは、それをどんな形にも昇華できずに、歪んだ形で発露させている人間が多くいるだろうってことだ。
自分の子供への虐待。差別意識。他者の過剰な排斥。
創造性のない生き方をしている人間は、自分の傷を経験に昇華させる機会がない。
話す機会さえない時だってありうる。
それは自覚する機会をことごとく失わせる。
全てに無自覚なまま、この世に放たれているということだ。
そうやって憎しみの連鎖の連なりは、絶えるチャンスを失う。


翻って自分の話。
いろいろと嫌な思いをしたとき、ノートや日記に書き連ねることで何かを消化してきた。
どうにか次の日もやっていかなくてはならなかったからだ。
くそったれ、死にやがれと書きつけて、翌朝元気に学校へ行く。
気に入らないことがあると、愉快に癇癪を起す。教員をバカにする、あちこちにイタズラを仕掛ける。
くだらない日常への意趣返しだったのだと思う。
同じことを他人にそのまま還元するわけにはいかないと、何となく理解してはいた。


だからって自分を美化するのは糞だと思う。今でも思う。
穏やかに暮らしたい、ただそれだけだ。
ただ穏やかに暮らせないから困ってしまう。
すぐに退屈になり、酒に手を出し、煙草に火をつけ、くだらない日常を少しでも華やがせてくれる男を漁ろうとする。
糞だ。


私は書くことで救われてきた。
ただ、書く世界に逃げ込むことで現実と戦えなくなったこともあったので、
書くこととの適正距離を探すときもあった。
今は適度な気がしている。
書くことに、表現することに、そうしなくては生きていけないという思い込みに、
かえって抑圧される場合もあるのだ。


孤独は、気がついたときから友人であったように思える。
孤独を理解しあえる友人がいなかったから、本当の友達はいなかったように思える。
思えば、ただお互い隠していただけなのかも知れない。
ただ、似た形の孤独を持っていなかっただけで。
理解を求めあい、与え合うには、幼すぎた。


自分が正しいのかどうかもわからない。
正しいってなんだ?
自分の進みたい方向に、進めてるかってこと。
それが私にとっての正しさ。他の誰かや社会正義とは無縁な話。

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