2011年5月31日火曜日

預言いただく

聖書について調べものをしていたら。


* * *


イザヤ 54章

「歌え、不毛な女よ。
一度も子供を産んだ事がないお前よ。
歌わずにいられないほど喜びに叫べ。
一度も出産の痛みを味わった事の無いお前よ。
なぜなら、人々から見捨てられたお前の方が、夫がいて子供をもつ女よりももっと子供達を持つだろうから。

お前の場所を広げるがいい。
お前の持つすべてを大きく広げろ。
後にはもう引くな。
あらゆるところに関わり、あらゆる絆を結ぶといい。
お前はあらゆるところへとその羽を広げるだろう。
お前を信じる人々とその子孫は、きっと国々の大勢を占めるだろう。
そして、かつては自分達を見捨てた土地で安住を得るだろう。


* * *

この後は、神表記が出てきちゃうから、非キリスト者のおいらはちょっと気持ちがもやつくんですが。
ここまでは、えっ何、毒女への応援歌!?とたじろぎました。です。

当時は戦争で夫を亡くして寡婦になることが多かったでしょうから、
そういう女性への言葉だったんでしょうね。

2011年5月27日金曜日

流れゆく方

忙しい。
忙しい。
忙しい。

というか、
ゆっくり立ち止まって一息つく時間がない。空間がない。
つくりゃーいいじゃないかとも思うのだけど、ぼんやりしようとすると「あれやんなきゃ」「これやんなきゃ」が沸いてくる。
ちょっといい加減、ぐったり。

根っこはのんびりゆっくり確実に、なので、スピードを要求されるととたんに余裕を失います。
まあいいけどね。やるけどね。
とっても感じの悪い自分が出てきて、せっかくかぶった社会性の仮面がすぐに破れ、守ろうとしていた立ち位置を変えてしまう。
寂しいなあ。
けど、仕方が無い。そういう性分なんだし、そうあって結果オーライなんだから、きっと。


本当は、考えなくちゃいけないことや、やらなくちゃいけないこと、
本当の意味で向き合うべきことが、
確実にあるのに、それがあることもわかっているのに、
目の前の瑣末な現実に追われるふりをして、目をそむけている自分がいる。
のを、知ってる。
知らないよりはいい。
でも、知ってるので、知っちゃってるので。
現実逃避の旅が終わるのも、時間の問題なのかも知れないなと、
今はぼんやり思うのみ。


来し方をぼんやり眺めながら、流れゆく方を見やる。
執着をなくした私は、いったいどこまで浮いていくのか。
よく、わからないけど、なるようになるしかないと、今は思う。



きっとどこかに港があるはず。

2011年5月17日火曜日

【EXHIBITION】『シュルレアリスム展』@国立新美術館

先週の、とある午後。いつだったか忘れた。あ、確か月曜。
予定していた仕事がキャンセルになったので、突如時間ががっつり。
どうしよう。
どうしよう。


日々もやもやを抱えていた私は、自分の理解や認識なんて全く相手にされないような、
そんな世界に行っちゃいたくなって、
部屋のコルクボードに貼っておいた割引券を引っつかんで、乃木坂まで一目散。
私の世界なんて、どっか行っちゃえばいい。


そんなわけで、やってきました国立新美術館。
ちなみに出掛け前に、ゴッホ展のときと同じ轍を踏まぬよう、
念のため事前に「混んでますかー」と問い合わせはしてみたものの、
「初日から一切、そういった案内はございませんよー」という返事が。
チケット売り場にも、人の姿はちらほらしかおらず。
あんなに大々的に宣伝してるのに…さすがシュルレアリスム、と一人うんうんとガテンガテン。
全く一般的ではない。


そして入ります展示室。作品保護のため、うすぐらーく、かつ、さっ…寒い!
時間が経つにつれ、冷え切っていく体温。
そして理解を拒む作品群。
うーん。…居方がわからん。


と、始めのうちは、へ~ほ~とおとなしく生真面目な「鑑賞者」に徹していたのですが、
歩みを進めるうちに、こうじゃねえなと。こうじゃねえよ、作品との距離感が。ありがたがってどうする。
これは作家の糞小便だ。そんなもの拝受拝受とやってたら、売られてる筈の喧嘩にしたって形無しじゃ。
という気が、ふとしてまいりました。


そんなわけで。
方向転換。


「あたしだったらどういうタイトルをつけるかな」


と。


試みに一つ、何ともいえないのっぺりとした水色のキャンパスに、不思議なものがちょろちょろと描かれている作品に、
なんとなくタイトルをつけてみました。
タイトルをつける、ということは、その作品と向き合い、注視し、自分の世界を目の前の対象と対峙させることになるようで。
私なりのタイトルを見出し、その後に作家のつけたタイトルを見て、もう一度作品を見る。と。
あら不思議。
この作品は、この作品でしかありえない、絶妙なまでの完璧な調和をもってそこにあるように見えてくる。
落書きなんかじゃなくて。
それは、事実として、ある具体的な何かをモチーフとした、作品、なのです。


この発見に調子に乗った私は、片っ端からタイトルをつけては、おお、そうきたか、と作家の変化球を楽しんだり、
唸ったり、
共感したりと、
とても豊かで愉快な関係性を楽しむことができました。
近くで、どこかのおじいさん二人が、「なんもなあ、わかんねえよ。」「なあ、ほれこれ見ろ。鳥だ、鳥。」「はぁあ、わかんねえなぁ」と、何でこんなところに来ちゃったんだろうという困惑感丸出しで、歩き回っておりました。
対話を邪魔されたくない私はダッシュで逃げましたが、私も、自分の遊び方を見いだせなかったら、同じことになっていたかと思います。






そんなタイトルごっこを続けてるうち、どうにも言葉にならない作品に出会いました。
たいがいのものは、作品の中に描かれているものが、勝手にアピールしてきてくれて、
さらっと言葉にできるのに、
こればっかりはどうにもならない。
うんうん唸って、頭をひねり、これまで働かせなくともよかった認識・理解・思考の回路を無理やり動かして、
それっぽいタイトルをつけましたが、
やはり納得いきません。
どうしたものか、まさか無題ではあるまいか…と恐る恐るタイトルを見ると、



「沈黙」



ジョアン・ミロの、有名な作品らしいです。
私はとんと不勉強で、知らなかったけど。




帰りは、新宿で少し?飲んで帰りました。
なんだかいろいろな日、でした。


nick

2011年5月16日月曜日

裏方フェチ。

最近、まあとある身近な方の話なのですが、
その方の「おシゴト」に、たいそう感銘を受けます。
何といいましょうか、非常によくコントロールされており、
投げるタマも的確で、パスも相手の受けやすいところに投げ込む。
結果、その場にある様々なものごとが調和を見出し、元来あるポテンシャルより少し大目の力が引き出される。
これは、なかなかできることではありません。


たいがい、特に若い時分は、保身や見栄に走ります。
ミスしないようにしよう。うまくやろう。相手にもっとアピールしよう。
だけど、その方はそういったことが遠回りであることをあたかもご存知かのように、
裏へ裏へとまわる。
そう。
ザッツ・裏方気質。
目立たない分、損なように見えるし、
実際のところ、報われない思いが大きかったりする場面もありますが、
こういうことができる人が、一人いるのといないのとで、
ある集団の機能の度合いが全く異なってきます。


私はなぜか、
この裏方気質をもってしまったがゆえに、表舞台に堂々と歩いていけない、否、いかない方々を、
偏愛する性癖があるようです。
これまでの舞台関係の現場でも、そういった方々には賞賛と憧れの眼差しを向けてため息をついておりました。
すげえ。マジすげえ。
誰も気づかなければ気づかないほど、感心する。
そんな、マニアな感動。


この感動を、日常の社会で見出してしまいました。
そりゃもう、感動の嵐ですよ。
我はある。我はあるんでしょうけど、
コントロールされてる。
このコントロールは、なかなかできるもんじゃありません。
特に、若ければ若いほど、
俺が俺がとやりたがりーになってしまい、
相手を立てることにより場全体が得られるメリットより、個人が目立つことで得られる満足感を求め勝ちです。
しかし、この、私に感動を与えてくれる方は、
私よりも若いにも関わらず、このコントロールが抜群に上手い。
何でしょう。これは才能でしょうか。
あるいは、後天的なものか。複数の能力が集まって、かつそれを統括する能力が飛躍的に伸びて、とかでしょうか。
うーん。
とにかく、素晴らしい。
誰にも気づかれないままに、私一人が大絶賛。


マエストロの能力、ってことなんでしょうかね。
もうしばらく、この偏愛っぷりは止みそうにないです。
先方は「なんでこいつはやたら絡むんだ」と困っているでしょうけど(笑)