2017年3月30日木曜日

雑記。

今日、とある方とお話をしていて「『便所の落書き』はないだろう」と突然言われ、
なんだか隠れてこっそり飲んでいた酒がばれたくらいの衝撃が走り、
何を垂れ流したのか思い出すために久々にブログを開いた。

過去ログを少しさかのぼると、
追想の彼方に容易に飛び去ってしまいそうなので、
そこそこでやめた。怖い。
ブログを更新しているときのメンタルは比較的ポジティブなときが多いけど、

その裏にはどす黒い闇にとらわれた時間がうずまいている。
闇にとらわれないうちに、かわす。

秋から続いた現場や仕事が一段落した(とした)ところなので、

またぽつぽつ更新してみようと思います。

***

今日、PCの動きが悪くなったりなんだりで、午前中はデータ整理をしていました。
するとなんだかよくわからない写真がたくさん。
二十代後半にお世話になっていた一橋大学の、兼松講堂のランプとか。


確か、大学雑誌の編集の仕事で一眼レフカメラを貸し付けてもらって、
練習と称してはしゃぎながらキャンパス中をカメラ抱えてうろついたときのものかと。
伊東忠太氏が設計した兼松講堂。手擦りや壁のあちこちに妖怪が潜む。

不惑を越え、人生(持ち時間)の折返しも確実に越えたと自覚したところで、
これまで過去なく未来しかないと思ってがむしゃらにやってきた自分に、
過去ができたように思えました。
無軌道なのに、生きてこられたのが不思議でならない。
冗談抜きで、みなさんのおかげだと思いました。
関わってきた方々が、世界の片隅に居場所をゆるしてくださって、
そして関わってくださったおかげだなと。
じゃなかったら、リアルに、とっくに野垂れ死んでる。

いろんなデータを整理しながら、時間の旅でもしようかなと、
ふと思い立ちました。
金のかからぬ旅路。
開けちゃいけない箱が開いちゃいそうだけど、
まあそのときはそのときで。

2016年8月24日水曜日

ひとり角田光代祭り



なるべくいろんな作家を読むようにしているけれど、
やっぱりどこか偏ってしまう。
あまりべたべたな情感たっぷりの描写が多いのは苦手だし、
頭がさほどロジカルではないので、理が勝っている文体は得意じゃない。

そんな私に丁度良いのが角田光代の文体。
マグマのような情念を、人間の業を、ごくドライな客観的な、短めのセンテンスでズパッと置いていく。
時に見事な職人技であっと思わせる。
主客の温度差が、引き裂かれるようで、ある種の気持ちよさがある。

たぶん、自分の中の葛藤と距離を取りたいときに、
角田光代が恋しくなるのだろうと思う。
主観に取り込まれてあがいている私に、ドライな言葉で光をくれる。
言葉は光だ。ある混沌は、言葉がなければ混沌のまま。
認識を経て言葉であらわされるからこそ、他者との共有の糸口が見出される。

チャリをこいでブックオフで入手した三冊が終わったところで、
今回の祭りは一段落。
「空中庭園」「三面記事小説」「森に眠る魚」。
どれも、とてもよかった。
それぞれについての感想は、また気が向いたときにでも。

2016年8月11日木曜日

映画「シン・ゴジラ」


「シン・ゴジラ」を見てきた。
IMAX上映最終日、間に合ってよかった。


過去のゴジラ作品をまともに見ていないし、
ゴジラそのものに思い入れがあるわけでもないけれど、
モンスターの悲哀が感じられて、とても愛着がわいた。
ただ生きているだけで、集中砲火100%の対象となり、傷つけられ、脅威の対象となる。
『泣いた赤鬼』を思い出す。


津波のこととかメルトダウンのこととか、
政府が機能不全起こしたときのこととか、
つい最近まであったデモのこととか、多摩川タマちゃんのこととか、
そりゃもういろんなことを思い出させられる。
あと、自衛隊の装備はいまこんなふうなんだとか。
戦時になるとこうなるのかとか。
天皇の存在は全く触れられなかったよねあーでもドラマとしてそんな余地ないよねとか。


こういう、いわゆる「敵」が現れる作品には、いつもドキドキする。
現実の、社会における仮想敵ムードが、それでつくられかねないから。
例えば911テロの前後あたりからか、ハリウッド映画の悪役はアラブ系のテロリストが王道になった。
冷戦時代にはソ連のスパイ、KGBが王道だった。
そんなふうに。
「敵だよね」「攻撃対象にしていいやつだよね」って、誰もが納得できるものが設定される。
そして現実の感覚を補強する。


なので、あまり「敵」とされるものが出てくる作品は、基本的に好きじゃない。
だって、その「敵」は、あくまで主人公にとって都合の悪い存在にすぎず、
その敵の側にも事情やら理屈やらがあるわけなので。
今回も、何か理由があって地上に出てきたわけじゃん、やつは。
ほっとくわけにはいかないから闘うしかないわけだけれども。


ネタバレになるのもなんなので、あまりぼやくのは飲み屋の会話にとどめておく。
なんであれ、2時間強、たまに手を叩いてしまうほどのドキドキワクワクをさせてくれた庵野ゴジラ。
シンプルに気持ち悪くてよい。異形は見ているだけで興奮する。
エヴァは、誰よりも使徒が(エヴァ含め)魅力的だったのを思い出した。
面白かったっす。



2016年8月8日月曜日

久々に。

怒濤のようにいろいろなよもやまがあって、
気づけばこのブログも1年ほど離れておりました。

ちょっと時間ができたので、
またぼちぼち、ぽつぽつ、再開しようかなとか。

よろしくお願いいたします。


写真、先日デニったときのかき氷。
お祭り行きたいなぁ。

2015年12月5日土曜日

適当な料理

最近、「適当な料理」にはまっている。
だいたいこんな感じ、ああそうそうこんくらい、みたいな。
あとショートカットのために、レトルトとかばんばん使う。
最近の朝は、大目に炊いて冷凍してある炊き込みご飯(出汁はレトルト)で、割と贅沢目なお茶漬けをつくることに命がけ。


今朝は、鰹節をぶっこんだ湯に、細かく刻んだ大根の葉とカブをぶっこんで、
その隙に生姜をすりおろしてネギを刻んで、
ついでに大根も少しおろして、
レンチンした炊き込みご飯にとろろ昆布とユカリ(大子町で入手)と永谷園の「お茶漬けのもと」をぶっかける。
野菜が柔らかくなったであろう頃に火をとめ、鰹節ごと飯にぶっかけ、その上から薬味をまき散らす。
もはやぶっかけすぎて何が何だかわからなくなってるけど、これが旨い。


一昨日、すりおろしテクをどうにも満喫したくてしたくてたまらなくなり、
すりおろしデコボコが持ち手についたピーラー(皮むきするやつ)を購入。
ちょっと小さいけど、しばらくこれでやってみる。
昨日は納豆とろろ蕎麦をどうしてもやってみたくて「やまと芋」をおろしてみたけど、
ぬるぬるだらけで制御不可能になり本当に大変だった。


おろしたての生姜でいただく食事は本当に美味しい。
今までのチューブ生活は何だったんだ。
いまわさびを探しているのだけど、近所の大手スーパーには見当たらず。
商店街の八百屋に行ってみよう。


自分の指先から、扱った食材の匂いがする。
いまは生姜の匂い。
前は煙草ばかり撒いたり吸ったりしていたので、煙草の匂いが絶えなかった。
そういえば、魚を扱う居酒屋の料理長兼マスターが、指から魚の匂いが消えないから、
自分の子どもに嫌がられるという話をしていた。


何となく、指先にしみこむそんな生活感て、よいものだなあ。

2015年11月4日水曜日

そういえば「派遣」


先日フライングステージの舞台を拝見して、そこに登場する人物何名かが「派遣社員」として働いている設定になっていた。
LGBTの社会での在り方が大きなテーマの1つである団体なので、ゲイやレズビアンが登場する。
そのゲイの中に、派遣もいて、正社員もいた。
この「派遣」というのが気になった。


私も自分の台本を書こうとする際には、「女1」「男3」という役名であろうが、
またやりとり内には出て来ないにしても、
一応どのようにこの世でシノギを立てているか、各人物についてそれなりに考える。
そのときに、
・社会において成人として責任を背負いきりたくない
・でも働かなくてはならないが肉体労働は嫌
・どこかでホワイトカラーに近い位置でありたい
といった意識を持たせたいときに「派遣」という設定にすることが多い。

そして一番の重きは「社会において成人として責任を背負いきりたくない」にある。
ある一定の組織に属して正式な部分となるのではなく、
いつでも切り捨てられる部分(雇用・被雇用の双方にとって)であろうとする。
それが「派遣」という選択をする積極的な理由の一つだと、私は捉えている。


そしてこの流動的な関係をあえて選ぶってどういうことなんだろうと、
舞台を観て改めて引っかかった。
だって、出世も頭打ちになるし、作業の幅に限界があってある意味ルーティンで面白いとは言い切れないし、
労働条件についても正社員ほど手厚くはないし。
働き手としては望ましくないことの方が多いのではないかと思う。
でも「派遣」を選ぶ。

そして私もこれまでシノギで必要なときは、「派遣」を選ぶことが多かった。
正規雇用からはとにかく走って逃げていた。
でも、この暫定的な関係って、団塊→バブルを経た後の、僕たちがちょうどいいと思える社会との関係の作り方の、一つの肯定的なモデルなのではないか。
つまり、会社や組織に属することがアイデンティティの一部を形づくるってことは、
もはや必然では無いんじゃないのってこと。
そこに団塊~バブル世代との間との、認識の溝があるんじゃないかなって。
そんなふうに思った。


どこかに属した方がいいんじゃない。
いったい何がしたいんだ君は。
さんざん問いかけられ、時には責められ、
自分でも何だろうなと思ってきた。
どこにも属せないし、自分の社会的役割はこれですと一語に決められない。
だってそうすることで、誰の特にもならないし。意味があることと、到底思えなかったから。
だからそうしなかったし、できなかった。
答えられないなー、ごめんなさいなー、とそれなりに悶々としてきた。


けどこの、暫定的な、目的に沿って集合離散を繰り返す形の方が、何となく今は風通しが良いし、一つのワークスタイルなのかも知れないと考えている。
一方で、これまで、労使間にとんでもない闘いがたくさんあって、労働側がいろんな権利を手に入れて来たのは、ほんの少しだけど、知ってはいる。
フランス革命とかロシア革命とか、日本のこれまでの歴史のことも考えると、ここに至るまでどれだけたくさんの血が流れてきたことか、とも思う。
だからたぶん、結婚もせず「派遣」なんて暮らし方ができるのは、贅沢な話なんだろうとは思う。


でも、だって望まないんだから。望めないんだから。
自分を大きく抑殺してまで生きていく人生を選ぶことはできない。
それこそ、これまで流されてきた血を否定する行為なんじゃないだろうか。

あ、ちなみに、正社員として働くこととか、結婚とかを否定しているわけでは、
全く無いです。
じゃなくて、そう出来なかったってだけで。
落伍者と呼べるのはこちらです。
で、本当にこれは落伍してるってことなのかな、って話です。はい。


舞台では、終演後の対談で「孤独死くらいさせろ」というエピソードが出た。
福祉の方向性を問う、重要な考え方だと思う。
生きるって何だろう。
ねー。


絵は今日ハマったばかりのクロヴィス・トルイュ
尼さんが絡んでます。

2015年11月3日火曜日

だらだらごろごろ

ものすごく久しぶりに、さほど強いプレッシャーもないところでぼんやりと暮らしている。
いや正確に言うと、プレッシャーになりそうなものを全部いったんわきにどかして、
のんびり暮らすことを優先順位の上位に置いて生活してみている。
いわゆる「一息ついてる」って状態です。


現場貧乏性なので、何の予定もないと不安で不安で仕方なくて、
その不安を埋めるためについ誰かを誘って飲みにいってしまっていたのがこれまでの暮らしだったのだけど、
今は何となく、「立ち止まったら?」の内的ヴォイスに耳を傾け、したがってみる。
というより、体力ががっそり落ちてきているだけなんだろうけれども。
確かに、一息つける環境にあることなど(経済的な意味も含めて)本当に稀なのだから、
せめて今月だけでも、少し考え考え、ちびちび貯金を切り崩しながら暮らして行ってもよいのでは、と思った。
いや今月は無理だな。今週か。いや今日か。
と、やっぱり不安に負ける。働かざるもの食うべからず。


何かしか、だらだらブログ書くかもですが、
ちょっと中にもぐります。


そうそう、きょう山口昌男のエッセイ『知の祝祭』をだらだらごろごろ読んでたら、
クロヴィス・トルイュって絵描きが紹介されてて、
これをネットで調べてみたら、エロアナーキーで良い感じで、
思わず待ち受けにしちゃいました。
こういうのが手軽に調べられるようになったのは、本当にありがたいです。