2015年11月4日水曜日

そういえば「派遣」


先日フライングステージの舞台を拝見して、そこに登場する人物何名かが「派遣社員」として働いている設定になっていた。
LGBTの社会での在り方が大きなテーマの1つである団体なので、ゲイやレズビアンが登場する。
そのゲイの中に、派遣もいて、正社員もいた。
この「派遣」というのが気になった。


私も自分の台本を書こうとする際には、「女1」「男3」という役名であろうが、
またやりとり内には出て来ないにしても、
一応どのようにこの世でシノギを立てているか、各人物についてそれなりに考える。
そのときに、
・社会において成人として責任を背負いきりたくない
・でも働かなくてはならないが肉体労働は嫌
・どこかでホワイトカラーに近い位置でありたい
といった意識を持たせたいときに「派遣」という設定にすることが多い。

そして一番の重きは「社会において成人として責任を背負いきりたくない」にある。
ある一定の組織に属して正式な部分となるのではなく、
いつでも切り捨てられる部分(雇用・被雇用の双方にとって)であろうとする。
それが「派遣」という選択をする積極的な理由の一つだと、私は捉えている。


そしてこの流動的な関係をあえて選ぶってどういうことなんだろうと、
舞台を観て改めて引っかかった。
だって、出世も頭打ちになるし、作業の幅に限界があってある意味ルーティンで面白いとは言い切れないし、
労働条件についても正社員ほど手厚くはないし。
働き手としては望ましくないことの方が多いのではないかと思う。
でも「派遣」を選ぶ。

そして私もこれまでシノギで必要なときは、「派遣」を選ぶことが多かった。
正規雇用からはとにかく走って逃げていた。
でも、この暫定的な関係って、団塊→バブルを経た後の、僕たちがちょうどいいと思える社会との関係の作り方の、一つの肯定的なモデルなのではないか。
つまり、会社や組織に属することがアイデンティティの一部を形づくるってことは、
もはや必然では無いんじゃないのってこと。
そこに団塊~バブル世代との間との、認識の溝があるんじゃないかなって。
そんなふうに思った。


どこかに属した方がいいんじゃない。
いったい何がしたいんだ君は。
さんざん問いかけられ、時には責められ、
自分でも何だろうなと思ってきた。
どこにも属せないし、自分の社会的役割はこれですと一語に決められない。
だってそうすることで、誰の特にもならないし。意味があることと、到底思えなかったから。
だからそうしなかったし、できなかった。
答えられないなー、ごめんなさいなー、とそれなりに悶々としてきた。


けどこの、暫定的な、目的に沿って集合離散を繰り返す形の方が、何となく今は風通しが良いし、一つのワークスタイルなのかも知れないと考えている。
一方で、これまで、労使間にとんでもない闘いがたくさんあって、労働側がいろんな権利を手に入れて来たのは、ほんの少しだけど、知ってはいる。
フランス革命とかロシア革命とか、日本のこれまでの歴史のことも考えると、ここに至るまでどれだけたくさんの血が流れてきたことか、とも思う。
だからたぶん、結婚もせず「派遣」なんて暮らし方ができるのは、贅沢な話なんだろうとは思う。


でも、だって望まないんだから。望めないんだから。
自分を大きく抑殺してまで生きていく人生を選ぶことはできない。
それこそ、これまで流されてきた血を否定する行為なんじゃないだろうか。

あ、ちなみに、正社員として働くこととか、結婚とかを否定しているわけでは、
全く無いです。
じゃなくて、そう出来なかったってだけで。
落伍者と呼べるのはこちらです。
で、本当にこれは落伍してるってことなのかな、って話です。はい。


舞台では、終演後の対談で「孤独死くらいさせろ」というエピソードが出た。
福祉の方向性を問う、重要な考え方だと思う。
生きるって何だろう。
ねー。


絵は今日ハマったばかりのクロヴィス・トルイュ
尼さんが絡んでます。

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