2010年12月19日日曜日

【EXHIBITION】『没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった』@新国立美術館

先日、
ガタガタの疲労をおして出向いた銀座での打ち合わせが、
立ち話10分で終わるという驚異的な事態に陥ったため、
終了後、今しかない!とゴッホ展へ。


と、意気揚々と乃木坂駅を出て券売所に行き着くと…
ん…?
並んでる…?


これまで何度か美術館によちよち足を運んだけど、
並んでるのを見たのは初めて。
ちょっと嫌な予感。


そして会場。
朝10時代の日比谷線くらいの混み様。
芋洗いとまでは行かないけど、
美術館でこれは芋洗いに等しい。
何より、作品と鑑賞者との1対1の関係が結びづらい。
常に誰かの頭や顔が視界を遮ったり、
小さな額を覗き込むために赤の他人同士では有り得ないほどの近さで顔が近づいたり、

果ては爺さんの加齢臭を思い切り吸い込んでむせたりと、
ゴッホ以外の雑音があまりに多すぎる。


友人同士での感想の言い合いも聞きたくない。
ゴッホが耳を切り落とした後に療養所で描いた作品群。
狂いないデッサンと細かな点描で、療養所の庭が色鮮やかに描かれていたものがあった。

『僕にはもう不安や苦悩や後悔はない。仕事に専念したい』みたいなことをテオに書き送ったとボードが出ている。
(クロニクルに沿って展示してある。)
その後最終的に、自殺に至る。


するってえと、おばさまが、
「ほら!悩みがふっきれたからこんなにキレイ。やっぱりふっきれると色使いもほら、こんなに鮮やかになるのねえ。」


耳、ありませんけど。
療養所に閉じ込められてますけど。
この後、自殺しますけど。

何故そんなに、想定しうる因果関係の射程距離が短いのだ???
自分のコンテキストに沿った解釈を、 友人とは言えなぜ他人と共有できると思える???

てめえこの野郎、アタマっからもう一回見直してきやがれ、と喉元まで出かかったが、

所詮自分も芋洗いの芋、
絵なんててめえの見たいように見ればよし、
きっと偏屈でおかしいのは自分だ、
とぐっとこらえた。


有名な自画像の前なんて動物園並の人だかり。
いやきっとモチベーション的には近いものがあるのだろう。


興味深い展示で、作品そのものは素晴らしくかったが、
ざらついた印象がついでに残った。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 私は美術館にも入場制限を行うべきだと常々考えています。エコツアーも,海外では,環境を傷めないよう,その一年間のツアー参加者の上限が定められているところがあります。日本はかなりいろんな面でいい加減です。富士山も高尾山も一年間の登山者の数を決めてしまえ。他人のケツや加齢臭やたわごとを見て聞いて,芸術や自然の美を堪能したくありません。
 私の意見はともかく,あなたのこの気持は,本当によくわかります。
 話は変わりますが,以前,チケットをもらって,世界の名作中の名作と言われており,値段の付けようのない「ストラデバリ」とか言うバイオリンが日本にやってきて,日本一の女性のバイオリン弾きがそのコンサートがあるからと誘われて,いやいやながら行きましたが,曲名すらわかりませんでしたが,美しい音色に聞き入ってしまいました。
 ところが突然,なんと,演奏中に携帯電話が鳴りました! コンサート開始前,会場のあちこちでしつこいほど,携帯電話に関する注意の掲示とアナウンスが行われていたのに。当の携帯電話を鳴らしたクソバカ野郎は,慌ててスイッチをオフにしましたが,もうなにもかもぶち壊しです。殺意を感じました。
 それからです,もうどこにも行かなくなりました。
 人気のある自然や芸術作品とサシで向かい合いたいとその場所に赴けば赴くほど,この国では不愉快な思いをします。

nick さんのコメント...

衝撃ですね…。文化や芸術に関する姿勢が違うのではないかと思います。

そういえば先日、寄席に行って納得したのですが、
平気でガサガサと袋を開け弁当を食べだしたり、缶ビールをあけるプシュ音がしたりしました。
私語なんて当たり前。
おそらくこちらが、ステージや見る対象を前にした、昔ながらの日本人のあり方なのかなあと。


でも、違いは違いとして受け入れつつも、新たな姿勢を自覚的に見出していかなくてはなりませんね、きっと。